テモテ1 1:14〜 ズレた信仰を熱心にしていたパウロ | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

1世紀のイエシュア 信者たちに対して、パウロがした迫害、弾圧の理由は、彼らの信じている救い主を、パウロが気がつけなかった、見えなかった事が原因です。

そしてイエシュア 信者を”危険因子”と危惧し、偽?の救い主に

神に対する冒涜だと嫌悪を示し、ローマ政府に協力し、

イエシュアを信じるユダヤ人達を迫害して、猛烈な反対者であったとあります。

 

ここで解いておかないとならない誤解は、2つあります。

 

1つは、1世紀のイエシュア信者達は、”新宗教”を信じる人ではない事です。イエシュア信者は、ほとんどがユダヤ人なのです。以前と変わらずに同じ”トラー”を生きる人達と言うことです。

だからイスラエルでの当時、パリサイ派、サドカイ派などと並んで、ナザレ派と呼ばれていたのです。これは、別の記事で書く必要がありますが、ナザレ派と呼ばれなくても、聖書には、最初

から残りの民=救いの実態を受けて生きている人たち=ナザレがちゃんと書き綴られているのです。

ナザレと言う語源に意味があるからです。

 

1世紀のイエシュア信者に関して、絶大に誤解しているのです。

1世紀のイエシュア信者=トラーを捨てて、別の新しい教えの

生き方を選んだ人達。これって、完全に非聖書、聖書の記述とは全く違います。神の仰せ=トラーに書いてある通りに信じ、トラーの実態を生き、トラーに書かれたイエシュアがあの地上に来られた救い主=イエシュアだと認識した人達=ナザレ派です。

 

彼ら1世紀イエシュア信者達は、現代の西洋宗教の教えも信じていない、西洋宗教の教えが混じった信仰などもしていない、西洋宗教が作ったトラーに書かれた神の作った記念日とは違う、別の記念日も知らないし、だからもちろん祝ってもいない人達である事実を考えたら見えてきます。それどころか、トラーを終わらせて作った、新しい別の宗教の教え=西洋宗教の教え自体が、聖書が書かれている時代には存在さえもしていないのです。4世紀

まではそんな別の宗教の教えは出てきていないのです。でも当時もあったトラーとは違う偽の教えへの警告をパウロはしていますが。1テモテ1:4

イエシュアと同じ、いや、古代から、預言者達、創世記から

マラキの時代に居た人達と同じトラーを信じる信仰の人達=

1世紀のイエシュア信者が聖書に書かれているのです。

イエシュア異邦人信者も同じです。

 

もう1つの誤解は、パウロがイエシュア信者に対して、暴力振るう暴漢であったなんて事ではなく、パウロの様なローマとそして

イスラエルの市民権を持つ特権に預かる特別な市民としての

働きをしていたと言うことでしょう。イエシュア信者がローマに処刑される所にも立ち会い、スパイがごとく、危険人物を

議会に引き出すなどなど。

 

パウロは、神に対して正しい事をやっていると思いながら、

実はとんでもなく不遜な事をしていたと彼は告白しています。

偽の教えを信じる信者を厳しく取り締まるのだ〜と、それこそ

正義感に満ちて、取り締まりをやっていたのでしょうね。

トラー、預言書に書かれたイエシュアがイエシュアであると、

パウロが気が付けない、分からない盲目時代。その盲目時代に、イエシュアに直接迫られた、救い主と直に出会う体験をした後、

一時的に盲目状態になった。以前の考え方の目が閉じなければ

ならない状態になった。以前の自分の考え方と言う眺め方を全て

閉じさせられ、新しい見方をする思考に切り替え続ける準備期間が必要だった。

 

私自身も同じ様な事を考えます。私が聖書に書かれたイスラエルの神、救い主を信じていたつもりでも、実はその反面、神の言葉を直に否定する教えを本気で信じ、同時に公然と人に伝えていたこと。それこそ熱心に。曲がった、聖書とはズレたイエシュア像を人に伝え続けたのです。聖書に書かれている本当の神の言葉の意味、神の言葉が途中で変わることがないこと、救い主の実態を、知らなかったからです。神の仰せでもナンでも無い、宗教の要素満載の事を言っていた、やっていた。

 

神の目から、聖書の最初の70%は古い呪いの教え、律法、

廃れたものだと教えられたから、そこに書かれている神の言葉こそが、聖書全体に書かれている事、その内容など教えられもしないし、参考程度に読むと言う自体が生じ、その中身が今日生きることへの、詳しい教訓が書かれているなど、夢にもツユにも

思わない。神の言葉のある部分は要らない、終わり、ある部分は取り出して励まされると言う考え方。

 

人が生きる事の詳細、指導、インストラクションが書かれた神の言葉を捨てれば、一体何が神の目から汚れとされるものなのかが分からないまま、それが良い事だと疑いもせずに行動していた、取り入れていた数々。トラーに書かれた事が分かった後に、何が神の目にハター、ズレ、汚れなのか生まれて初めて知るまでは、分からなかった。分かるわけなかったのです。

そして、その奥義の深さに驚嘆すると言うか、どこまでも続く

永遠に続く神の言葉の奥深さ。そして神の知恵を捨てる愚かさを初めて知ることになったのです。神の言葉を捨てる=

イエシュアの実態を捨てる=命の源泉に蓋をすることだから。

 

異邦人だから、トラー=婚姻契約から、イスラエルの国籍から

遠く離れて生まれ、育ち、異教の神々の教えの影響下中で

ずっと生きてきたから、分かるわけなかったのです。

 

神に言われた言葉を、今も同じと分からなければ、創世記から

マラキは古い教えで終わったと教えられて来たから、大事な、

重要な生きる全てが書かれているのに、それを要らないものと

認識していたし、何が書いてあるのか、何を教えられているのか?その意味、内容も理解などもしようとも試みなかったからです。いやそれ以前に、聖書の中身を本当の意味を、教えてくれる人、教師に出会えなかった事が、大きな問題だったと後で気が付くのです。数え上げれば切りないです。でも分からなかったからそうやっていた、していた、言っていたとしか、パウロ同様に言う以外無いのです。

パウロも神に対して熱心なはずだったのが、実は本物のイエシュアを知る事に対する妨害する行為、大きな妨害は神=神の言葉をそしる事。そして、神に対してそれこそ冒涜、不遜、汚らわしい事をやってもそれが正義、正しい事と思っていたとあります。

 

1:14

その上、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスにある信仰と愛とに伴い、ますます増し加わってきた。

 

信仰とか愛とか書いてある言葉は、パウロはトラー=婚姻契約の

中に書かれた愛の詳細を生きる事、トラーに書かれた愛、

その愛、その契約の詳細、教えの全てを包括するのが愛、

パウロは全てトラーに基づく信仰の話しているのです。

別の教え、別の契約、別の新しい教えの話なんかしていないし、別の教えを愛することではない。

 

”愛”=アハヴァ=契約の愛に基づく愛、信仰=エムナ=神の言葉トラーの真理=エメットに基づく、神の言葉に基づく事です。

神の言葉に同意する事を、アーメンと言うのは、このトラーに

綴られた詳細に対しての同意確認宣言の言葉、愛、真理と同じ語源、ルート文字で構成された言葉=アーメンと同意する事なのです。神の言葉以外の別の教えに同意する事では無いのです。

 

1:15

「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。

 

罪人のかしら=パウロの強調です。トラー教師であったのに、

人を正しく教え導く立場に立っていたのに、トラーに書いてある

救い主が見えなかった。それゆえに救い主に対して、様々な事に盲目になったままでいて、イエシュアを信じる人達を迫害し、

その行為は実は神に対して敵対している事だとも気が付かず、

人は神の真実からかけ離れた状態で、ズレているのに、それでOk、自分は真実に生きているから大丈夫と思いながら、熱心に偽りの教えの世界を生きる可能性がある事を、パウロのあゆみを見て、知らされる思いがします。

 

 

続く