1:8わたしたちが知っているとおり、トラーなるものは、
トラーに従って用いるなら、良いものである。
トラーは、良いものであるとパウロがここではっきりと
クリアーに言っていますね。
神の言葉は、完全、タミーン欠けがなく、人の全存在<魂と
訳されています>を生き返らせ=本来の状態に戻し、無知なものを賢くするとある通りだからです。トラーは神の言葉、宣言では
終わった教えではない、永遠に有効。
ここでパウロはこう言いながら、次に神のトラー=言葉=それが同時に、悪いものだ、ある人達に取って無用、要らないものなのだと言うのは変だと誰でも気が付くはずです。辻褄合わないし、前後の発言が矛盾しているから。そうだとするとパウロの言っている主張が支離滅裂になってしまうからです。文脈と、語っているポイント、論点をちゃんと把握して読まないとならないのです。早合点で決めつけない事です。
決めつけ=トラーは終わりと、始めから決めつけている前提=
偏見が頭脳に居座っているから、常にそこに照らし合わせて、
聖書を考えているからです。人の編み出した教えに照らし合わせないで、聖書にだけ照らし合わせて考える。”神の言葉は永遠普遍、変わらない”と言う事実だけに照らし合わせる軌道修正が必要なのです。
パウロの言う事実=トラーは神の永遠普遍のインストラクションと言う前提=主張が土台。神が宣言されたように、神の言葉は、始めから終わりまで、アルファでありオメガ、永遠に変わらない事を土台に次を読めば、パウロが何を言っているのか、
読み取れます。
<神の言葉は、神の言葉の意図通りに沿って生きるなら
トーブな状態になる。>
そして、次の様な箇所を前後の文脈を考え、パウロが一貫して
主張している、トラーは完全なものと言う言葉を無視せずに
読めば見えてきます。
1:9−10
すなわち、トラーは正しい人のために定められたのではなく、不法な者と法に服さない者、不信心な者と罪ある者、神聖を汚す者と俗悪な者、父を殺す者と母を殺す者、人を殺す者、
不品行な者、男色をする者、誘かいする者、偽る者、偽り誓う者、そのほか健全な教にもとること<反している>があれば、
そのために定められていることを認むべきである。
早合点して、トラーは救われない人だけのためのものだと誤解してしまうのは、この様な個所ではないでしょうか。
でもパウロが他の箇所でずっと話している内容、文脈、
語ろうとしている内容と照らし合わせたら、突然パウロが
トラーを否定する事など言っていない事に気が付くでしょう。
つまり、義とされた人にはトラーはもう終わったのさ、不要なんて変でしょう。義とされた日本人は、日本国憲法無視して、好きな様に生きていいのさと言うのと同じ事です。前後の文脈から
考えても、もしパウロがトラーを否定するとするなら、パウロがどれだけ矛盾に満ちた話、支離滅裂な事言っているのか気が付きます。でも、この箇所、巷の教えはこんな解説だと思います。
律法は救われてない人のためにあるのだ。だから、救われた人には、律法はもう無用になったのである。これも変ですね。
律法自体、ユダヤ人だけのものだ〜と言う教えもある。それどころかイエシュアがトラーの一点一画も手を加えるな、天地が今存在するなら、トラーも天地が有る限り永遠に存在する。トラー預言書は私そのものと言われた様に。聖書はどの個所も実は、
トラーに関して、トラーを土台に語っている事実が、見えてこないだけです。文字で書かれたトラー=肉体を取って来られた
トラー=イエシュアと書かれているからです。
もしトラーが終われば、神の語る”ハター”罪の定義は、義とされた人の生活から跡形もなく消え去ります。
救われた人は、無法=トラー無しの好き勝手、何でも許される、何でもありの世界を生きていいのさ!パウロは、そんな話をしているのでしょうか?。
では、パウロは何を話しているのでしょう?
この9章でパウロはこう言う事を言っているのでしょう。
おさな子、違反する人、何も分かって無い人、違反行為が神の目にどう映るか考える事が無い人、又はそれを違反しても大した
事無いと言う神経の人。その人には、乳飲み子に教えるように、
トラーの初歩から、”いろは”から、トラーに書かれた全てを
ちゃんと教えないとならない、トラーの内容、何が神の目から
ズレなのかと言う事を教えないとならないと言う事です。
トラーを熟知した成人、トラーが身についている人には、
いちいちトラーのいろはを1から教えなくても、言わなくても、トラーの詳細が分かって、身について生きているから、
何が神の目から見て違反なのか、そんな事繰り返し、その人に
向かって言う必要無いです=義とされた人には必要ないと言う意味でしょう。
トラーが無用、必要ないなど、パウロは言っていないのです。
空でセリフを暗記している人に、台本がいらないのと同じ。
暗譜完璧にしている演奏者は、楽譜がなくても演奏出来るので
楽譜を差し出さす必要がないのと同じ。
トラーが分かっているのか、いないのか、一々確認する必要が
無いと言う事でしょう。
トラーを知って、生き方に身についている、その実態の事を話しているのです。
義とされた人が、義とされた人の姿を生きる、曲がらない生き方をしている人の隣に、トラーを持ってきたら、ぴったり合うから、その人の生き方に対して、トラーの物差しもって来て、
忠告、ズレているかどうか、いちいち計らないくても良い、
腹に書かれたトラーにちゃんと照らし合わせて生きているからと
言う事でしょう。
補助輪なしでも、自転車に乗れますと言う事。
トラーに馴染み、意味が分かり、腹に書かれたトラーが、
その人の性質そのものとなった生き方をしている。
トラーがちゃんと根付いていて生きている人、イコール正しい人、神に義とされその性質を生きている人。
義人とされた人達の生き方は、どんな生き方ですか?
トラーにぴったり沿った生き方に決まってます。そう聖書の
至る所に書いてあります。神を愛する人は神の言葉を愛する、
神の言葉を生きるとは、神の言葉=トラーを指して、聖書では
ずっと語っている事実があるのです。
トラーを生きる必要ない=やり放題、殺人、姦淫、その他何でもやって良い、その人任せ、人間主体主義なんてパウロが言うと
思いますか?そう考えるのは、”異邦人思考”だからです。パウロ=生粋のヘブライ、ガマリエルの弟子、パウロが議会に引き出されて証言させらた時、ヘブライの中のヘブライ、パリサイの子と宣言した意味が何か理解する必要があります。
しかも、地上でイエシュアが教えた教え、生きた内容は100%
トラーのみである事実があるのです。人間の編み出した教えが、
はじめから聖書とはズレている、矛盾しているのです。
続く