現代も変わらない神の定めの日  大贖罪日 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

2019年は、10月8日に大贖罪日がやってきます。

 

神の記念日、創造主直々に人間に伝えられたアポイントメント

タイム、定めの日は、レビ記23章に書かれてあり、これは永遠に、代々=オラームに変わりないと聖書には書かれています。

書かれているからその通りに信じて、生きる。

 

人の解説では、これは現代終わったのだと言う事に、勝手にされてしまって、神のオリジナルの正真正銘の召集日、アポイントメントの日を、その様に取り扱われていますが、そんな教えが出てきたのは4世紀以降です。

 

聖書が閉じられた後に、人間が作った主張、解説であり、神の仰せでは無い証拠が聖書にちゃんとあるのです。文字で記されて

いるのは、神の揺るがない教えとして人々が確認出来るための

ものでもあるからです。

 

地上に再び救い主が戻られたら、神の記念日を全世界が祝うようになると書いてありますがその時に、”そんな古い祭り”祝いません~と言う場合の事もちゃんと書かれています。今までそんな神の記念日の祝いをしなかった人々もする様になると書かれている。ゼカリヤ14章

 

聖書に根拠も土台も無い人の教えを全部排除して、聖書だけ戻れば、隠れていた真実が浮き上がってきます。神が与えて下さったものはすべて、私たちには”宝”、恵、祝福、命をガードするものであるか分かれば、それを捨てることがどんなに恵、祝福、

鎧兜を捨てる事、損害、損失なのかも分かって来ます。しかも、特別な日、会見日を人間の世界でも忘れたら、それはその人との関係をないがしろにする事、相手に対してその程度の親密さである事のバロメーターでもあるでしょう。誰も自分のパートナーとの記念日=結婚記念日や婚約記念日、特別な記念日を忘れない、カレンダーに書いて心待ちにする。準備する、大事にするで

しょう。神の記念日に神と皆で特別な出会いをする機会を設けて下さっている。

 

伝統的な教え=神学が真実だと本気で信じている、その数々の

事柄は、実は神の言われた真実でも何でもない唯の人の解説した教えであるものがたくさんあるのです。

聖書だけに戻ればそれは確実に確認出来るのです。だから神が

文字で証拠として、代々に渡り確認出来るため、天と地を証人

として、神が世界へ大々的に印象付けるために、ひっそりとした密室ではなく、シナイ山の出来事で契りを結んだ儀式までしています。世界は出エジプトもシナイ山の出来事も、皆知っている。

 

今は恵の時代になったので、昔の古い教え=そんなの関係な~いと考えていました。

その恵の時代、恵が無い時代と言う神学の教えも、人が歴史の

途中で勝手に作り出した教えです。聖書には書いてない。

聖書に何の根拠もない教え。神の言葉を忘れさせる、ないがしろにする、捨てる様に教える教えって?どこから来るのか

最初の最初にクリアーに書かれています。

 

神は婚姻契約=トラー=聖書を与えた時に始めから、ご自分の

ことを、永遠から永遠に恵と憐れみと許しに富んだ神と

紹介されているからそれが神の言葉の根拠に基づく真実です。どこを取っても神の実態、助け、救い、恵はどの時代の人間にも全く同じなのです。だったら2000年まで地上にイエシュアが来られるまで、助けも贖いも許しも何もなかったわけ?て。それこそ人を放置する残酷な神でしょうね。偽の神の顔を世界が主張する。

 

これから大贖罪日がやって来ます。大贖罪日?秋の記念日?と

言う事さえ以前考えた事もなかったです。

イエシュアがされた子羊の血の業、出エジプトでの子羊の血を

地上の神の家で、この大贖罪日の一連の儀式を通して、

その実態、中身を教えられているのです。今は神殿が壊されて

機能出来ない状態ですから、実際にはこのコバーンは持ち運び、儀式の一連をする事は70年以降は出来ていませんが。

 

今も祝う主の日、記念日=イスラエルの神の子ら”神の契約を知らないまま遠く離れて生きて、イスラエルの国籍とも無縁で、

トラーに書かれた神に造られた人間の生き方にも何も馴染みが

無い国民=異邦人だったけれど、今は神の中にイスラエルと同様に引き寄せられて、接ぎ木され、同じ契約に加えられ、

同じイスラエルの神の国の子らにされた”と書かれている事が真実であるならば、創造主の造られた記念日は、イエシュア を

信じる異邦人にも同じ家族の記念日なのです。エペソ2:11-16

 

ダビデが書いた詩篇23章、義の道=イエシュアの道を1年を通して歩むとは、この記念日=イエシュア の内容を巡り、網羅する全てから生きると言う事を語っています。みな最初からイエシュアを知って、トラーを生きていた人達。

 

ヨム テルアから10日の間、この一年をそれぞれが振り返り 

”テシュヴァー”悔い改めと訳されていますが、戻る。神の中に戻る。神の中も戻るとは、神の提示した人間の生き方=トラーの生き方に戻ることを話しているのです。ダビデはトラーを語っていた、預言者は契約の生き方に戻れと警告をした。それが預言書。イエシュアの教えも全く同じ、100%中身はトラー。

イエシュア=トラー。トラー、預言書はわたしそのものと

イエシュアが言われた。

 

どこでどう落ちてズレたのか、神のことばに照らし合わせて

自分を振り返る。神の契約=トラー=言葉のなかに、自分のずれた生き方を戻し、軌道修正するのです。

 

そしてその一番大きな日が皆で集い、互いの生き方を神の前に

振り返る日=大贖罪日=ヨム キプール。イエシュアのされた

業を考える日でもあります。

 

毎日反省、悔い改めてるからそんのわざわざしなくても良いん

ですと思っていました。

しかもどの日も神の記念日になるのさなどと言う教えが本当だと思っていた。そんな教えは聖書ではないです。神の言う事を人の

考えで否定して塗り替えているだけ。人間世界にも特別な日が

設けられている意味がある。特別に皆が共に体験し、印象付けられ、学習する日が神により設けられている。

 

人の教えではなくて、神がなんと言われたのか?が重要であり

意味があるのではないでしょうか。主はモーセに言われたと

何度も書いてあるのです。

 

神がそうしなさいと言う言葉を聞く。それは難しくもなんともないです。

自分基準の考えを前に出さない。神が言われる通りをやってみると言う基本がずれたら、その思考回路、態度、考えがずれていると言う事なのでしょう。

 

神の前に出る。アダムとエバがずれた時やった事。神か隠れた。

 

隠れる。神の前に隠れてはダメで、自分の中に巣食っている過去のゴミ、歪み、気が付くものをちゃんと洗いざらい前に持ち出して、”嘆き悲しむ。内臓も全て祭壇の上に出して=腹の中身、隠れている部分も神の前に全部持ち出してと書かれている意味が

あります。腹の中を神のトーチ=光で探って下さいとダビデが言ったあの言葉はこの祭壇の上に持ち出すキシュカ=内臓です。

全部主と一緒に確認しよう。それは、責めの声ではない、癒しと修復をもたらすためのプロセスを通らないとならないからです。

 

どこからどうしてそうなったのか?原因を考える。そして、それを繰り返さない事。

”今からは決して罪を犯してはなりません。”同じ罪を犯さないようにと、あの姦淫の現場でさらしもにのされた女性にイエシュア が言われた言葉の通り、失敗、ズレから学び、同じ事を繰り返し続けたら、破壊的な生き方を引きずるから。

 

 

続く