毎日がどんどん瞬く間に過ぎて、第一の月の14日に過越を
迎えてから、もう1ヶ月近くが経ちます。
命、人生、神のデザインはサイクル。巡り巡って命が繋がれて
行く。パン種の教えの中には色々なものが詰まっています。
パン種=自分に属さない異物、でも自分の中にそれを取り込めば
別物の姿に膨れ上がると書かれています。
去年のパン種=古い自分の思索、行動パターンを、次の年に持ち越さない。過越をしたら、新しい年が始まり、新しいサイクルの
スタートが始まる。
でも、実際には”死んだ自分”の中に潜んでいる記憶が今もちゃんと存在している。思索パターン、行動パターン、以前のパン種が
混ざっている事、注意してみればちゃんと気がつく。
川の流れのように、表面では見えない、下の深いところにある
流れがある。それが妨害している事に気が付けない。
自分を生きる事を抵抗、阻む、いつも妨害して来る要素がある。本当の自分を生きる事を阻んで来るものがあるのです。
それが、パウロが言った”自分が何をしているのか分からない”詰まり死んだ自分は本当の自分ではないのに、亡霊の様に自分を支配して来ようとするからです。
聖書に書いてある通りの事実に戻して、言葉を直して言い換えてみたら良いのです。
”あなたはどうしようもない罪人”などと言わないで、
”本物のあなた=神の似姿に取り戻されている人の実態とは、
ずれた生き方を今も選択し続けているよ。”と。
神の名を虚しく唱えると言う意味は、唱えている内容、
神の子らの実態を”生きていない”と言う事なのです。
行動が伴わないあなたの信仰はどこにあるの?一体何?と
書いてあります。
言動が、思索が、行動が、全て虚しい=神の命に繋がらない
空っぽな生き方だと言う意味です。言葉を唱えるだけで、
実際には神の実態を生きていない。ただやっても同様に無意味と言う事。内容が伴って初めて命が溢れる。
毎週の第七日目のシャバットを生きるたびに、そして祭りの準備をする中で色々な事を教えられます。神の時の中、神の言葉の中、声の中に生きる時、神は神が言われた通り、神の時の中で
大事な事を必ず教えてくれるから。神が言われた通りを実行する人に、水がワインに変わった事を体験させてくださる。
原則はただ一つ。神の言われた通りに、神の言葉を生きて
みる事。それにはただやってるだけではなくて、神の言葉で語られている内容、意味を知ると言う事は必然なのです。
今は”オメル”穂を数える7週間の中に居ます。
ローマ教の世界では、神の記念日を削除して、又は変形して、
後は部分的にだけ、祭りを回想するようにしました。
だから、シャヴート<ギリシャ語でペンテコステ=五旬節>を祝う?祝うと言うより、軽くその話題に触れると言うことぐらいの体験だと思います。しかも、シャヴオートの意味を学んだことも
以前はありませんでした。聖霊が初めて降った日だと教えられた。
ペンテコステで初めて神が人の中に住まうことが始まったと言う教えを聞きましたが、聖書に基づけばそれは不真実なことです。
名は実態です。神の名は神の実態です。神の実態は歴史の途中で
七変化しません。
神の名=イマニュエルと紹介していることでも分かるはずです。
しかも、シナイ山のシャヴオートの出来事の方がもっと凄いからです。天が地上に直に降りてきたでしょう。
神が直接人々に語られた。モーセに現れた。人々は光とサウンドで神の声、臨在を体験したでしょう。
過越から数えて、7週=7回のシャバットが来たらシャヴオート。
この数字には意味があります。完了の業で贖われた人達。
新しくされた人が新しい人として生きる7週間の時期に
今現在神の暦によれば、居るのです。ローマ、グレゴリオの暦の
ローマの教えでは違うでしょうけれど。
もちろん、皆が農業に携わっては居ないから実際に、畑に
生えてくる穂の束を数える事はしないのですが、ではその教訓は何を教えているのか?と言う事なのです。
出エジプト=奴隷身分=偽の神々に仕えて、偽の自己像を埋め込まれて生きてきた歴史がある。そこからいきなり脱出させられた
わけです。一夜にして。
その人達は、贖われた人達なのです。新しい身分を与えられた。
でも、それは体感的にピンと来ない。神の家の子らの生き方など身に付いてない。
荒野で、初めてシャヴオートを迎えるに当たってずっとずっと
過越の後から教えられたのです。意識を切り替える。偽の神々に仕える奴隷では無い、軌道修正の日々。でも全員がそれを分かっていたわけではない。
週末友人達と話して居る中で、様々に見えてくるものがありました。問題は複雑のようでも、原因はシンプルです。
神に造られた人々=神のエッセンス=似姿に造られたのに、
周りを見渡せば、その実態と、実際の生き方がとてつもなく
かけ離れている。
お互いを傷付け合う生き方をしてしまう。家庭の中で、
学校で、職場で、社会で。バイオレーションだらけです。
暴力ではなくても、言葉の暴力。違反行為、侵害行為、無視、
無慈悲、無関心、冷酷、自己中心、他者を顧みない、騙し、脅し
脅迫、ストーカー行為、破壊行為、冒涜。様々な形のヴァイオレーションで満ちています。只々嘆き悲しむしかない。
でも、その中でやっぱり神の子とされた人達が、自分をどう生きるのか?と言う事だけは選択出来るのです。相手がどう考え、行動してくるかそれは、こちらはコントロール不可です。
でもその環境の中で、どのように反応し、対応するかは
自分の側の問題です。相手がどうあれど、事情や状況はどうであれ、自分はいつも神の子として親切で柔和な態度、言動を貫く。
相手がこうだから、自分も同じ様に対応してやろうなどと考えれば、それは偽の神々に仕える奴隷のまんまの状態です。
神の子、光の子らしく生きる。選択、決断、1秒ごとに。
そして、やっぱりチームワークが整っている場所は動き易い。
爽やかな風が吹く、緑の大地の様に。
一つ思い=頭脳=神の言葉の中で一致する意識がある人達の
間では、本当に神の言葉をガードして実際の生活の中で
生きようとする。そうすると幸せです。単純に。
それが無いから痛む、傷つく、欠けを感じる。
いつも塩味の聞いた言葉で、親切な言葉で、優しく語りかけ、
神の子らしくお互いに対応し、お互いの言う事を立ち止まり
ちゃんと聞く。感謝の言葉を述べて、相手を敬い、尊重し、
傷つけるような言葉を決して言わない。相手の気持ちを考える。
こう言う事にお互いが注意を払うだけで、それだけで
シャロームが生まれる。でも、それはなんでもかんでも受け入れる、許容する事とも違うのです。間違いはちゃんと訂正する。
それがちゃんと書いてある。箴言27:5ー6
何でもかんでも取り入れたら、人は破壊されてしまいます。周りを汚染してしまう。
これを、無視して、おざなりにして、無神経に生きれば、
もうめちゃくちゃ。
幼稚園の先生が、幼い子供達に教えます。
みんなと仲良くしましょう。悪口言わないようにしましょう。
隣の子を叩いてはダメですよ。断りなく人のものを使わない様
にね。ぶつかったらごめんなさい言いましょう。喧嘩したらすぐに仲直りしようね。<初めから喧嘩しない方がいいです。>
なんかこれは、全部大人も守らない人が多勢いますよね。
トラーを生きるとは、これらの詳細が全部ちゃんと書いてある。
神のトラーは人の命をガード、保護するもの。
命をもらったことを自覚したボーンアゲインした人達は
命の実態を持って、神の子らの姿を生きられる。
ただ信ぜよ〜と歌いますが、ただ信じるとは、信じますと言うことではない。悪魔でも神を信じているのですから、
神が何を言われているのかをまず知って、それを真実だと認めて信じて生きると言う行動に移す。
ギリシャ ローマ思索は、思想、哲学の世界。
ヘブライの世界は全て”行動”に移すこと。
信じた事を行動に移さないなら、それは”神の名を虚しく唱える”と言う事だからです。
続く