ほとんどの人は元々異教の神々の国で生まれ育っています。
イスラエルでさえ、混ぜ物、異教の神々の教えと混じり合ってしまったのですから。元から異教徒、異教の神々の国に生まれ
育ったら、それは普通の事であり、異教徒思索で考えるのは
普通。ヤオロズの神にお伺いをその時その時で、変えて行けば
良いと考える思考回路、思索。
左隣の人は何の宗教もないけれど、異教徒の教えを全部取り入れて冠婚葬祭をし、太陽に手を合わせて拝んだり、お札を下げたり、家の中に多種類の異教の様々な飾り物をしているかもしれない。右隣の人は熱心などこかの新興宗教の会員で、生活の全部が
その宗教の宗教活動に費やして生きている人かもしれない。
その間に住んでいるイスラエルの神を知る人達は、その人達と
口も聞かない、挨拶もしない、接触しない、町内会での役割もやらない、そんな生き方をしろと神は言われていないのです。
そうしたら、山奥に仙人の様に暮らすしかないですから。
地の塩、世の光は、異教の神々の国で生きるにはどうするのか?
もちろん、普通にちゃんと生活する。神の子らの生き様=神の言葉=トラー=婚姻契約の愛の姿を生きる。そして、隣の人が信じている教えが、出どころサタンと分かっていても、間違ってもそんな事、直接相手に面と向かって言わないのは常識でしょう。
自分の生活、生き方に触れて、いつかイスラエルの神、救い主を知って欲しいとは願い、祈っていても。口には出さない。
自分は、その人を批判、軽蔑、見下しもしなければ、拒絶もしないし、普通に隣近所の隣人として生活しますが、自分では彼らの習わしや、教えや儀式を決してやってはいけない事は、分かっている事が大前提です。
隣人を人としては、尊重しますが、彼らの異教の神々の教えとは自分は決して取り入れない、迎合しないし、敬わないし、触れない、関わらない、交わらない。
この違いを分からないとならないのです。
”彼らの教えに混じり合ってはならない。彼らの習わしを取り入れてはならない。”これに反対する人は、誰のことを考えているのでしょう?神のこと?それとも人ですか?
でも、混ぜ物をしてはダメと言う神の教えが分からなければ、
異教徒の教えを取り込み、混ぜてしまう。ローマ皇帝の様に、
大衆信仰=太陽神の信仰要素をふんだんに取り入れて混ぜて
神のトラーを捨てて塗り替えた新興宗教を作ってもそれが罪だとも考えない、その様な意識、発想がない、思わない。異教の神々の要素、なんでも取り入れる事が他者を受け入れる事だ、それが
神の言う愛だと勘違いする。神の愛の定義はトラーに書かれており、神は異教の神々のもの取り入れる事を、姦淫の罪とし、激しく忌み嫌うと宣言しています。
申命記18:9あなたの神、主が賜わる地にはいったならば、
レビ記18:3あなたがたの住んでいたエジプトの国の習慣を見習ってはならない。またわたしがあなたがたを導き入れるカナンの国の習慣を見習ってはならない。また彼らの定めに歩んではならない。
マルコ8:32 しかもあからさまに、この事を話された。すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめたので、
<神の言われること、されることを超えて塗り替えて、人間が神に物申す。これが、諸悪の根元である事は明らかです。神が言
われたこと、神の言葉を人間が否定する、捨てる様に教える。
それがどれほど恐ろしい事なのか。気がつかないとならない。
その態度はサタンが出処と言われてしまいました。>
8:33 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた、「サタンよ、引きさがれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。