神の警告 預言は変わらない | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

神の警告は、ずっと同じ。異教の神々の慣し、しきたり、儀式、教え、シンボル、偶像それらに仕えてはならないと言われたの

です。直接他の宗教の物そのものなら分かりやすい。

はっきり違い、別物だと見分けがつくから。

 

分かりにくいものは、ヤロベアム王がやったように、神の言葉を少々塗り替える事。ヤロベアム王のやった罪の重さが聖書にずっと語り継がれています。1列王12:28ー33 神の秋の祭り、

仮庵の祭りを、1ヶ月ずらして、別の場所で捧げ物をさせて祝うようにした。それは、現代も同じ事をすれば同等の罪。

ダニエル7:25

又は、出エジプト直後、シナイ山の麓で、婚姻契約を取りに行っているモーセがなかなか戻ってこないので、当時ラインもワッツアップも無い時代。様子が分からん。仲介者が死んだかもしれないので、希望を失い、しびれを切らし、別の仲介者=異教の神々の物、礼拝の仕方=金の子牛を作り出し、イスラエルの神を、エジプトの慣し、方法で祭りをし拝んだ罪。出エジプト32章、

マタイ7:22、23

 

4世紀以降何が起こったのか。異教の神々のものを取り入れた

教えが、神の言葉を塗り替えてしまったのです。そして、トラーを捨てる様にローマ皇帝が勅令を出し、1世紀のイエシュア信者達、ユダヤ人達の様にトラーを生きる事を禁じ、生きる場合は、迫害、処刑したからです。深く静かに潜行し、密室でトラーを教え、トラーを公には教えられない、生きる事が出来ない、密かに生きるしかない時代がきてしまった。それが事実。

その足跡を、探る。調べたら分かるけれど、調べない場合、長年言い伝えられてきた教え=神の言葉は神が2000年前に終わらせたと言う嘘を本気で信じ続けてしまうのです。

 

そんな事、聖書のどこにも書いてないのです。嘘だと思うなら

自分でとことん調べてみれば良いのです。

 

カトリックの経典に、”カテキズム”と言うものがあります。

それは、質疑応答の形で書かれています。

その中にはっきりと書いてあります。

神の記念日をカトリックが変えました。神ではなく、カトリックがそう決めたからですと。そして神の記念日を変える権威は、

神から与えられていませんとも書かれています。そして、

神の記念日が変わった根拠は聖書には無い、書かれていませんと、はっきりそのカテキズムの中に書かれています。

 

ですから、こう言う風に言い換えなければならないはずです。

神のトラーを、神の記念日を、神ではなく4世紀に人間が変えました。

変えたのは、神ではなく、人間ローマ皇帝ですと。嘘に気が付いて。真実通り、その通りに証言する。それが聖書に定義されている、告白と言う本当の意味です。神の真実通りを復唱する。

神が変えたなどと言う嘘を神の前に、人の前に、偽証してはならないのです。神の言葉に対して決して偽証してはならないの

です。人を誤りに導くからです。

 

カトリックが宣言するように、聖書に何の根拠の無い事ですが、

人間が変えましたと言わないとならないのです。人に偽情報を

伝えないために。どうしてそんな事をしたのか?神の仰せ、禁止事項など太陽神信仰異教徒であるローマ皇帝は、読まない、注意も払わなかった、自分が神の座に座ることが目標だったから。

 

伝統で語り継がれている習わし、習慣で、神の言葉=トラーを捨てる様に命じ、教え、神の記念日を作り変え、これこれをしていますと言わないとならない。そしてそれは、聖書には書かれていませんが、4世紀にローマ皇帝がそう決めたので、その慣し継承された伝統に沿って、トラーではなく、ローマの教えに同意してやっていますと、真実正しい宣言をしないとならないのです。

 

その証拠がちゃんとあります。歴史の中に。そして聖書の中に。

聖書には、トラーを捨てよ、終わりなどという教えはどこにも書いてない。その逆が書いてある。聖書の至るところに、トラーを永遠にガードせよと。もしトラーが無いとするなら、罪も今現在この世に存在しませんと言っていることに気がつかないとなりません。

なぜなら、聖書にある罪の定義は、トラーに対する違反、反則とはっきり書いてあるからです。

それ以外の罪の定義はこの世、神の造られた世界には存在しない

と言う事が事実なのです。そしてトラーが終わり=婚姻契約終わり=人間と神は関係ない存在ですと言う教えになってしまいます。

 

ある方がこう言いました。イエスキリストは12月25日に生まれていない事を知っています。クリスマスはもともと異教の神々の

冬至の祝い=サタナリア、新ローマ教の祭りとしてその異教の祭りをその異教の祭りに便乗させ、作ったものにしました。

異教由来の祭りである事を知っています。だからその中にあるシンボルも異教の神々のものを拝借しました。それが、門松やお札なら分かりやすいけど、古代の西洋海外のものだし、見分けられない。救い主の誕生日を祝う様な仰せ、祭りは聖書に存在しない事も知っていますと。

事実、1世紀のイエシュアユダヤ人、異邦人信者達は共に、

クリスマス、イースター、ハロウイーンなど誰一人として知りませんでしたし、祝ってもいませでした。

嘘でしょう?と思う場合、自分で調べてみたら良いのです。

とことん聖書を調べる。そして歴史も調査する。

 

イースターも同様に、異教の多産の女神=それはイシス、エステロ、アシェラにも繋がる祭りですが、これを、グレゴリオが作り出した暦に塗り替えて、神がわたしの記念日を代々オラーム=永遠に祝いなさいと言われた春の祭り、過越の祭りの1連を削除して祝わずに、造られた祭りを祝う様になった。4世紀以降新しい祭りを作った事を知っていますと言います。

 

祭りの日にちも春分の到来の最初の満月の後に来る日曜日に

フィックスして制定しました。

だから、春の第一の月の満月 14日の日没に来る、過越の祭りと、ローマ教の祭りの日程が、ある年により時々かぶるのです。

今年もそうでした。イースターエッグやうさぎは多産の神のシンボルの由来であることも知っています。アメリカでは、この日、ポークハムを食べて祝います。預言者、イエシュア、使徒、パウロ、1世紀のイエシュア信者はクリスマスを祝ったり、イースターを祝ったり、又はポークなど決して口にしません。トラーに

基づき。人生の中一度も食べた事のないタメーな動物。

過越の祭りで食べたものは、”羊”=タホーな神殿で捧げられる

動物。子羊=イエシュア。ポーク=タメーな動物では無い。

豚では子羊である意味が消えてしまう。

 

異教の神々の祭りが元であるとは知っていますが、それを知った上で、私たちは敢えて知っていて、その上でその日を伝道の良い機会だと思って、祝っていますと言っていました。それは良い事だと思っていますと言っていた。神は聖書でその事をなんと言われているのか?迄は踏み込んでいませんでした。

 

本当に分かったら。。。分かったら。。

ローマが決めて作った祝い日ではなくて、神が永遠に祝いなさいと仰せられる、神が造られた祭り=過越を祝う方が妥当ではないのでしょうか。過越の祭りの一連の中で、新しい命、復活も祝うように神は初めからデザインしているのですから。

神の仰せやデザインを差し置いて、歴史の途中で、人間=皇帝=誰かの作り出した何かの方を神の言葉より優先、尊重、敬意を

払ってそれを選ぶ事をする事は、神はなんと言われるのか考える余地がないのです。ローマの教えが浸透したからです。ただの人間が作り出した伝統が継承されているだけなのです。

 

でもはっきり自覚して、事実を宣言したその上で敢えてそうしていますという宣言の方がいいです。それは、その人が神の前で選択した事だから、その人と神の間の問題だからです。それをとやかく誰も言う筋合いはないからです。

 

もし、神の真実と違う事を他者に伝えたり、やったりする事で

イスラエルの神と言うお方の実像を、真実とは歪めた情報を流してしまう事。途中で契約を終わらせて、別物の新しい契約=トラーを捨てた教えを出現させたのだと言う、嘘=誤解を招く不真実な教えを、周りの人、世界の人に伝えている事を知らない、気がつかないなら、それは神の前にどう言う事を意味するのか?考えないとならないのです。

 

偽証してはならないと言われたのは神です。人の教えが神の言葉を塗り替える事を禁じている、その偽証、偽りを許されないのも神です。イスラエルの神の子らはイスラエルの神の言葉を生きるとイエシュアも言われたのです。イエシュアは父の言葉=トラーを正しく伝えに来たと言われたから。マタイ5:17ー19

イエシュアは父が言われた通り、父の言われた事だけを

言い、生きた。WWYDが何より大事。

 

 

続く