神が求められるものは、神の言葉、真実への飽くなき探求  | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

どうしても引っかかって仕方なかった事。神が、預言者が

使徒達が言った事、やった事では無い事なのに神が、パウロが

そう言ったとか、神の言葉を神自身が否定して契約を終わらせた、変えたとされてしまっている、全世界に流通した、ローマの教えが神の言葉と”誤解”されている事。

 

立ち止まりじっくり、聖書だけに基づき、自分の頭で考え続けたら分かります。トラーは、終わり、トラーを捨てよと言う教えの出所は、神=言葉=聖書?それともローマ=人間=人の作り出

した神学、教え?どちらが聖書に基づき真実?

 

4世紀の人々は何を信じる様にローマ皇帝、ローマ政府に

命令されたのか?ローマ皇帝、ローマ政府が、太陽神信仰、

当時の大衆信仰の要素をふんだんに混ぜて作って決めた、4世紀初出現、時の新宗教の信条。それに賛同しない人は危ない目に

あった。

 

聖書に登場する人達、預言者、使徒、イエシュア、ユダヤ人、少数異邦人イエシュア信者達、又はユダヤ人達は、トラーをガードして、トラーの中身、トラーのライフスタイルを生きた人達であり、トラーを捨てる教えを信奉していたのではないことが、聖書にはクリアーに書かれている。

 

1世紀後半以降から、4世紀に入って、その時代のトンネルを抜けてみたら、神の言葉=トラーは、別の宗教に変身させられて

しまった。トラーを捨てよと言うスローガンで。

 

その間に、ローマによる迫害〜トラーを生きるユダヤ人、

少数異邦人たちは、殺害され、処刑され、又は散らされて行った。ローマ帝国のどの場所に於いても、ユダヤ人は徹底的に

トラーを生きることを禁じられ、そして、社会の中でも、意見を

言えない一番低い立場に置かれ、所有物も没収されて行った歴史の事実がちゃんと残っているのです。

 

だから、ヘブライ語のトラー=聖書なのに、誰もヘブライ語の聖書を学ばない、教える教師が居なかったのは、ユダヤ人はローマから、トラーを語ることを禁じられ、黙らせられたから。もちろんユダヤ人の間では、ずっとトラーをヘブライ語で学び、子供達に教え、どの国に住もうとも、読み続けた。生き続けた。

 

そして暗黒の中世時代でも、もちろんヘブライ語のトラーなどユダヤ人からなど学ばないので、誰も原書、原典に何が書かれているのかを知らなかった。司教や教父たちでさえ知らない。

お家元を追い出して、追放したから。トラーを捨てたから。

 

それこそ原典には何が書かれているのか、詳細が分からないので、様々な聖書から逸脱した人間の神学、人間解釈の教義、教えが編み出され、それを皆が信じていたのです。しかも、ヘレニズム思想。ヘブライ思想で書かれた聖書の思索が元々ないのです。

 

真実を知りたいのか、それとも人の伝統の教えだからそれでも

良いと考えるのか、どちらの道、門から入れとイエシュアが

言われたのか。自分の信じている内容に、棚卸し、検証、再確認を聖書に基づきすることは殆ど無いのが実情なのではないでしょうか。誰かがそう言うからそう信じていると言うことは数多くあるのです。伝統の教えだからイコール神の真実と思う。

 

今世界中で、神の言葉だけに戻り、探求し続ける人達がいる。

そして世界中に居る歴史学者達、イエシュア信者でも無い人でも、いつどの様に神の言葉が歴史の途中で変えられたのかを研究しています。書籍で、講演会で、ネットでブログでも情報発信をしています。

 

嘘でも1700年も経てば、あたかも本当の様に聞こえてしまう

これこそ、すごいトリックだと思います。聖書に書いてあっても

その通りに読まない様に教えられてしまう。アメリカの神学校でも聖書は神の言葉ではないと教える教師も居るのです。神の言葉の最初の70%は終わった、変わった教えだからと言う解説で、盲目になってしまう。不思議な現象だけど集団錯覚みたいな感じです。皆が進化論を疑いなく信じることと同等です。

 

でもトラーが終わりとする教えに基づけば、創世記からマラキのどこを読んでも、引用しても全く意味がなくなります。でもイエシュアが引用していた聖書は、トラー、預言書、諸書なのです。

この矛盾に気がつければ、真実への扉を開ける事が出来ます。

 

神学は、人間の考え、=それぞれがそれぞれに好きな様に聖書を解釈すれば良いと教えます。人間の書いた書でも同じですが、

著者は、伝えたい内容、意図がある。読者は、勝手に読み込み、

想像するのだったら、そんな読み方だったら、著者の意図が伝わらないことになります。聖書を読むのにも大前提が在るのです。まず聖書には何が書いてあるのか。それを知らないとならない

のです。その点は絶対にずらさない。それには、書いてある内容を書いてある通りに正しく把握する作業を端折れば、それこそ自分流の解釈が次々編み出されて行ってしまうのです。

 

書いてあることをまず書いてある通りに知る。そしてその上で

それぞれがそれぞれに適用するのは、それは個人のことでありますが、書いてもないこと、真実ではない内容から適用しても

無理、意味がないのです。書いてないことを信じても意味がないことは誰でも分かる世界だと思うのです。

 

人の教えを土台にするのではなくて、神の言葉の真実に戻して、その上で人が正しい情報に触れて、考えるチャンスを与えられる必要があるはずなのです。

 

どうしてそう考えるのか?それは自分自身が、10年前に初めて

ヘブライ語聖書の世界に触れる機会を与えられて、新しい探求の旅、ジャーニーに入った後も、目にある鱗が全部剥がれるまで、何年もかかったからです。眼の鱗とは、実は脳回路の枝です。

教えられて来た、本当は聖書の真実ではない様々な教理や神学や人の教えで、真実が分からない、読み取れなかった。

 

自分の思索がどれほど偽り情報に洗脳されて、その先入観、

偏見、バイアスを通して読むから、聖書に書いてある通りを読み

取れない。古い箇所は律法=終わりといつも頭に響く。

聖書が分断しているから繋がらない。真実と不真実の点と点は

繋がらないからです。

 

でも、ずっとずっと来る日も来る日も探り続け、読み続け、考え続け、ヘブライ思索で、ヘブライ語で書かれた内容の聖書の中身を知って行くと、そこには全然違う神像が書かれていた。

ローマが作った教えとは全く違う。永遠普遍の神、神の言葉、婚姻契約が書かれていた。創世記から黙示録まで一貫して同じことが語られていた。

 

自分の教えられてきた事を土台にするのを全部やめて、捨てて、

自分が何も知らなかった事を認めて、聖書に書いてある真実の

点と点だけをつなぎ合わせたら、絶対に真実、真相が見えてくるのです。ジグズーパズルのピースを繋げるように真実の絵図が浮かび上がってくるから。長くかかってやっと気が付いた。

入り口は、人間の作り出した、教え=神学の教えだったけれど、

本当に辿り着く場所は、神の真実の言葉であった事。

 

ああどうしてこんな遠回りしなくちゃならなかったのか?

直接本当の事=聖書に出会いたかった。

でも、それも意味があったのだと思います。

 

誰でも真実を知りたいと願望するのではないのでしょうか?

嘘でもいいさなんて思わない。偽物と本物なら本物が良い。

なぜ?人は神の似姿に造られ、神の真実の中にだけ

存在するように造られたから、真実を求めたいと願望する。

神と本当の関係に入るまで安息出来ないから。

 

誰でもそうだと思いますが、一旦真実を掴んだら。もう嘘には

戻れない。はっきり本物と嘘ものが見分けられるようになる。

 

人は神の言葉だけに戻り、自分が神に関して語る事が

真実な内容かどうか真剣に神の言葉に照らし合わせて、

検討しないとならないはずです。

 

続く

 

10の災いの中にもあったエジプトの太陽神ラー。

この信仰は世界に存在する。

日本もお天道様に手を合わせて拝む人達がいる。

 

オブリスク。これは世界中にも見られるもの。

あらゆるところに存在する太陽神のシンボル。

 

太陽神信仰 宮殿の前の太陽神のシンボルの中心に

オブリスクを建てる。

 

 

Zodiac

 黄道帯, 獣帯〘主な惑星と月・太陽が通るとされる天球上の帯; その中心線が黄道で太陽の軌道; この帯を12等分し, それに1つずつの星座を配したものを十二宮という〙.