先入観 偏見 人の教えを捨てて 神の言葉だけに聞く | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

聖書に書いてある通りに読まないと言う姿勢、態度は、エデン

の園のアダムとエバと同じ。書いてある通りのものを、

そのまま受け取らない、又は人間の神学の教えで変換し続けて

違う教えを生み出していきます。

 

書いてない事なのに、書いてあると思い込んでいる数々の事。

シャバットは神が2000年以降に、曜日変更、内容変更した、

現代では神の記念日はユダヤ人だけがやるもの。それは本当に

人間の解説。教えです。聖書に戻ればちゃんと回答が書いて

あります。神は”わたしの記念日”神の家の子ら=神の婚姻契約に

加えられた人々は、永遠に祝うと言っているのです。

 

しかも、イエシュアが再び地上に来られたら、今度は全世界の

民族国民がレビ記23章を祝うと書いてあるのに、ユダヤ人だけ

の祭りなんて定義は全く辻褄が合わない解説であることは、

明らかです。その通りに読めば。しかも神の口から直接

”永遠普遍のわたしの記念日”と言っているのに。。。。 

ユダヤ人だけの祭りなんて書いてないのです。

全世界の神に造られた人々=婚姻契約に加えられた花嫁の

ための記念日なのです。

 

しかも、イエシュアも過越の祭りの晩餐の儀式の中でも、

”わたしの記念として行いなさい”と言われているのに。

イエシュアが言われたのは、過越の祭りの中で祝う、

”種無しパンと3杯目の贖いの杯”を飲むたびに、イエシュアの

死と復活の命を思い出すためにこれをしてと言われたのです。

過越の晩餐でのパン種入りパンでは無い、種無しパン。

贖いの杯。他の日では無い、神の定めの日に神が言われた

様に祝ってとイエシュアが言われたのです。聖書の中では

ユダヤ人で過越を祝わない人達はいない。イエシュア信者で

過越を祝わない人は誰一人も居ない居ない世界での話なのです。

 

そのイエシュアの遺言の重さはどうなってしまったの?

まあ、ローマ政府に禁じられ、トラーの中身をほとんど捨てる

様に、脅迫され、強要されてしまって捨てた歴史の経緯が

分かれば、どうして神の言葉=初めの愛を捨てたのか、

神の言葉を蔑ろにする事や、勝手に変形する事が平気な

意識でいるのかが分かって来ます。異教徒マインドの

ローマの教えに迎合、混ざって、聞いて受け入れ、実行

したからです。

 

神が神の言葉を変更した、神の記念日を昇天以降変更した。

聖書のどこにもそんな事書かれてさえいない事実が在るのに、

変更記載が書いてはいないのに、書いてあると宣言する、

信じる、思う、変更されたと思う、それは、人の教えを信じて、

その教えから考えているから、書いてある言葉が書いてある

のにその通りに見えない、ただの思い込みなのです。

 

聖書に書いてある事実を繋ぎ合わせるだけで、事実とは違う事を

信じ込んで来た事に気が付けます。たとえ、4世紀以降、完全に

ローマ政府が神のトラーを塗り替える教えを編み出して、新宗教

を作った事実を知らなかったとしても、聖書に書いて在る

事だけを繋げれば、必ず真実に気がつけます。

 

書いてない事、存在しない契約書を信じる事、それらを全部

やめて、書いてある通り、書いてある事の内容をまず把握する

ことが大前提、本当のスタートです。適用はその後から。

 

聖書は、本当の花婿が、花嫁に書いた保証、約束、婚姻契約書

と言う古代の中近東地方で国々の間で交わされていた、

条約形式、形態とそっくりそのまま同じスタイルで書かれて

いる書式の契約書なのです。

 

申命記はまさに、古代中近東地方で存在していた、国と国が

交わす条約などの契約書そのもののフォーマット、形式そっくり

そのままの形で書かれています。なぜ婚姻契約書と分かるのか。

書かれている、使われている言葉が婚姻契約用語だからです。

 

日本語の契約書を見ても、そこに使われている言葉で、何の

契約書なのか、認識出来る事と同じです。

不動産契約、労働契約、様々な契約の内容により、書かれて

いる使われている言葉が異なるからです。

 

モーセがなぜ、エジプトの王家で育ったのか、その意味が見えて

きます。彼は帝王教育を受け、聖書をその様に”古代の契約方式”

で書く教育を受けていたのです。

 

だから、トラー=聖書に使われている言葉が、婚姻契約を

表す言語で表されているので聖書は婚姻契約だと分かる。

 

聖書は、初めに使われた言葉は、最後=黙示録まで全部同じ

意味、一貫した意味、内容、定義で使われているのです。

途中で言葉の定義は全く変わらないのです。変わったら

全部辻褄合わないことになってしまうのです。

 

だから、2000年以降神の言葉が、契約が変わったと言う仮説

が全く聖書と辻褄合わないことを語っているのは、聖書にだけ

忠実に戻ればちゃんと理解出来ますし、捉える事が出来ます。

 

愛、救い、贖い、義、命、娶る、花嫁、不貞、裏切りetc etc 

全て福音を網羅する言葉は、創世記の最初から黙示録の最後まで

同じ意味、定義で書かれているのです。

 

途中で何があっても絶対に契約は変化しない。

 

聖書が婚姻契約用語でずっと貫かれ語られていることは

聖書のどこを読んでも同じ。意味も内容も同じなのです。

預言書を読んでも分かります。イザヤ書、エレミヤ書etc

娶った、知った、姦淫した、裏切った、契約を破った、

法廷に出てその不義の内容を話し合おう、離縁するetc 

最後の黙示録を読んでも同じ内容が書かれているのです。

大淫婦。初めの愛=婚姻契約を忘れた人達。

 

聖書は、全て婚姻契約の詳細が書かれているのです。

途中で一旦成立した、天と地が証人で交わされた契りは

歴史の真ん中で変更などないのです。神と人間が違うことを

ちゃんと認識すれば、聖書に書かれた通りに読めば、その事実

をちゃんと翻訳でも読み取れるはず。

 

黙示録19:7ー10 子羊の婚宴。本物の花婿の元に、本物の

花嫁が引き寄せられる事が書かれているでしょう。婚姻契約

に基づいて、最後は花嫁が本当の花婿の元に引き戻される

祝宴がある。これは、秋の祭りと内容がぴったり重なって

います。春の祭りは、地上で既に、成就したもの。

秋の祭りはこれから来る未来の幕開けのリハーサル。

ショファーを鳴らす日=王の戴冠式。ヨム キプール=

大贖罪日。仮庵の祭り=永遠にイエシュア 子羊の婚宴、

花婿の中に住まう、永遠に入る。目覚めている人達は

今が何の時なのか知っていると、10人の花嫁のたとえでも

イエシュアがさとされた事と同じ。不意打ちに合わない。

聖書は、全て”花婿に嫁いだ花嫁が生きる詳細の全て”なのです。

それが、書かれているのがトラー=婚姻契約書だからです。

 

婚姻契約終わりなら、子羊の婚宴が書かれているのが意味不明。

全ては、神のトラー=婚姻契約にまつわる全てだからです。

 

続く