聖書に書かれている1世紀のイエシュア信者達、彼らの信仰、
ライフスタイルと今現在のキリスト教信者のそれと、
生きている内容が、ライフスタイルが全く同じでしょうか?
1世紀の信者たちは、現代のローマ発祥、起源の信仰、信条内容
の生活を送っていなかった。ローマにイエシュア信者達、
ユダヤ人達、又は異邦人信者が迫害されて処刑された理由は、
トラーを生きることを禁じるのに、トラーの中身を
生き続けたからです。イエシュアの処刑もローマ。使徒、
パウロ達もローマに処刑されたのです。トラーを生きる人達
だから。
使徒以降に書かれている事が、現代のものとどこが違うのか?
又は、1世紀のイエシュア信者たちと現代の信者の信仰の内容
が、全く同じと思っていませんか?では、1世紀のユダヤ人と
少数の異邦人イエシュア信者たちは何を信じて、
何を生きていたと考えますか?
1世紀の信者たちの生き方は、聖書にはこう書かれています。
彼らは、シャバットを第七日目に神が言われた通りにガードして
生きていた。日曜日にシャバットに変更して生きてた1世紀信者
と言う教えを聞かされた事がありませんか?
日曜日にシャバットを変更したのは、4世紀、ローマ政府の手に
より変更されたと言うのが本当の真実。だから1世紀信者は、
日曜日に礼拝式をするなどと言うコンセプトなど全く知らない、
想像にも思い浮かばない人達。日曜日は、ローマの信仰の
異教徒達の記念日だと認識するでしょう。1世紀のイエシュア
信者は、日曜日は止まる日ではなく労働日、
週の労働の第一日目。
1週間をシャバットまで労働し、シャバットを意識して1週間を
過ごし、シャバットへ向けて全てを準備し、金曜日の日没まで
に全ての労働を終えて、かつシャバットの祝宴の準備をした。
そして家族で、仲間、友人と楽しいシャバットを家庭で祝って
いた。パウロたちは、日曜日が労働日なので、シャバットが
終わる夕方、週の第一日目が始まるときに、シャバットを
閉じる事をかねて、仲間と集まり旅の相談や話をしていた
下りがありますが、この様な箇所で、シャバットが日曜日に
変更された証拠だ〜と早合点すのは、ヘブライ人ではなく、
トラーを知らない異邦人だからです。
使徒20:7 週の初めの日に、わたしたちがパンをさくために
彼らが言う週の第一日目初めの日の夕暮れは、グレゴリオ歴で
言うところの土曜日の晩です。西洋歴の週の第一日目の夕暮れ
は、ユダヤ暦では、月曜日が始まる晩です。
シャバットが閉じる時に、シャバットを閉じる儀式をする。
皆で集まりパンをさくのはシャバットを祝った事があれば、
誰でもやっているから分かる、知っているのです。しかも、
シャバットにビジネスや活動の話など絶対にしないのです。
1コリント16:2
いつも週の初めの日に、収入に応じて、手もとにそれを
たくわえておきなさい。
シャバットはお金勘定、ビジネス、週の間の労働、大掃除や、
洗濯など、余計なことを一切やらないのです。普段の事を
やらない特別な日。
だから、日本人が喪中に年賀状出さないと言うのが常識で、
説明しなくても知っている様に、シャバットで金勘定など
しないのは、1世紀の信者は誰でも知っている。
日曜日はシャバットでは無い日だから、金勘定や集金する
普通の日だからパウロがこう言っているのです。この様な箇所
を読んで、日曜日礼拝に献金を集める話をしていると思うのは、
ローマ教の礼拝式や儀式、しきたりを想像しているからです。
パウロ達が集まっていたのは、現代で言う土曜日の晩から夜中。
日曜日にシャバットに変更したのは神でも彼らでも無い。
ローマ政府です。4世紀に勝手に変えた。
シャバットでは町内会で1つしかトラーが無いので街の会堂に
行き、トラー朗読を聞くことをする人達も居た。短い時間です。
トラーと預言書の箇所を聞く。ほんの10分位で読めます。
毎日寝ても覚めてもトラーを思い巡らす、子供達に教える。
家庭でする事です。会堂にシャバットに出向かなくては
ならないなど、神の仰せに無いです。でもトラーを読み上げる
のを聞きたい人たちは朗読の時間があった。それだけ。
会堂もラビの発案のものなのです。
聖書が書かれている1世紀には、日曜礼拝も、日曜学校も、
バイブルキャンプも、クリスマスも、イースターも
ハロウイーンも存在しない世界。そんな名前もコンセプトも
存在しない。聖書に登場する人達の誰も知らない祭り。
彼らが祝っていたのは、シャバットと春と秋の都上りの祭り。
過越から始まる一連の祭り、最後はシャヴオートで閉じる。
都上りは全員が行けない場合、親戚の男子代表一人が上って
言った。秋の祭りも盛大に行った。
男の子供が生まれれば、”義”とされている無償のギフトの
印であるものを表す割礼を授けた。レビ記11章の神の定めた
食べ物だけを食べて生きていた。なんでも食べて良いなんて
考える人は、もちろん誰一人も居ない。それらはabomination.
神の宮である人が、自分の体にも地上の掃除機、海の掃除機と
して造られた汚れた動物など食べないのは当然。
その食べ物の教えの意味がトラーでどう言う意味なのか皆
知っていた。それは、神殿に入る事とも繋がっているし、
汚れ、きよいと言う教えとも繋がる。トラーを家庭で教えた。
こんなライフスタイルの信仰を現代の宗教はしていない。
だから、違いが分かると思います。イエシュア信者、トラーを
神の仰せ通りガードする世界に存在する人たちは、同じ様に
現代もトラーのライフスタイルを生きている。そしてその数は
膨大に膨れ上がり、広がる一方です。
こんなライフスタイルを、”律法的だ” ”恵を忘れた生き方だ”
と言うのは、ローマ政府の教えを買った結果の宣言なのです。
でも、神の仰せはどちらですか?トラーを捨てて生きよ?
それとも、トラー=婚姻契約の生き様をガードして生きよ?
どちらが聖書に書いてある神の仰せ、真実なのでしょう?
神の言葉は変わらない。神が禁じたものは、人には害毒な生き方
だから、ロー=だめ!と言われているのです。その神の言葉、
忠告さえも、もう聞き取れなくなってしまった。違う教えに
耳を傾けたアダムとエバと同じ現象。イエシュアも使徒たちも
トラーを生きていた。その事実がはっきり分かればどこがどう
違うのか?
トラーを捨てたところが完全に違うのです。1世紀の信者と
現代とでは。最近では世界にトラーを生きる異邦人イエシュア
信者たちが大勢いますが。
どうして違うのか?一体何があったのか?その原因は明らか。
ローマ政府により造られた新宗教により、トラーを生きる事を
4世紀に完全に国の条例として禁じたからです。処刑を持って、
迫害を持ってトラーを語ること、教えること、生きる事を
禁じたのです。世界では、アバ父がイエシュアを送ったので、
トラーを終わらせたと言う教えが流通していますが、
それは全くの嘘です。聖書に基づけば。
続く