真実を探り出すため 書いてある通りを曲げないで読む事の重要さ | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

聖書が、最初の70%と後の30%で内容が違うものであると

言う仮説を元にすると、聖書に書かれている中身が、全く

繋がらない、本当に全部辻褄合わないことだらけになります。

 

オリジナル聖書だけを探れば、いや改ざんされている、

大事な内容を切って捨てたり、また聖書に無い言葉や、文章を

付け足したり、1つの元の言葉を、最初の箇所と、最後の箇所で

別の”翻訳用語”に塗り替えて、あたかも別物の契約が出た様な

感じで語っている様な仕掛け、トリック、誰かの先入観の

意図を挿入された臭い翻訳箇所に気が付いて、それら不純物、

混ぜ物、人間の教えの挿入を全部取り除いて、元の言葉、

コンセプト=神の言葉は永遠に同じ、変化なしと言う事実に

戻して翻訳聖書を読めば、聖書は一貫して同じ事だけを貫いて

語っている事に必ず気が付けるはずなのです。

最初から最後まで一貫して同じことを語り続けているからです。

 

聖書が変わらない、一貫した同じ教えだと

気が付けない理由は”聖書の最初の部分”が

終わりであると言う先入観、偏見の思索、

信条が,書いてある内容を書いてある通りに

把握、理解する事を妨害しているからです。

 

だから、7と書いてあっても1だと言う意味だと認識し、

思い込む。その点一つに付いてだけでも、聖書から探り出して

繋げて行っても、見えます。聖書だけに基づき考え始めたら、

何が真実か、本当に気が付けるはずなのです。なんで書いて

ある通りに信じないのか?書いてある通りに読まないのか?

いや、書いてあるけど、本当は違う意味として書かれていると

思う。神が永遠普遍の言葉=契約=記念日=約束と直接御口

自ら語られた言葉が書いてあっても、2000年以降に変わったと

頭の中で神の言葉は書いてある通りの意味では無いと疑いもなく

信じ込んでいる、その”隔ての壁”障害物を取り除けば良い。

 

聖書は創世記から黙示録まで、1つの変化もない神からの

”婚姻契約書”です。途中で一旦約束した内容、保証を変える様

な、そんなやわでいい加減な神はイスラエルの神とは違う。

 

最後の黙示録も、花嫁を花婿から奪うものへの戦い、裁きです。

そして預言書も、トラー=婚姻契約から花嫁を引き剥がされて、

その花嫁を本当の花婿の元へ戻らせる事、それは、”トラー”=

婚姻契約を忘れたイスラエル〜人類へ神の婚姻契約に生きる事に

戻れ!と言うのが預言者の警告なのです。だから、黙示録での

警告も”あなたは初めの愛=婚姻契約書=トラーをガードし

生きることを忘れてきた”と書いてあるでしょう。

 

ずっと同じ婚姻契約=トラーを巡って語られているのです。

 

”わたしを愛する人はわたしの仰せを守る、生きる”

あれば、それは何を生きることをイエシュアが語って

いるのか、まず知らないとならないのです。

 

神を愛する人は、神の仰せを愛するとあるでしょう。

どう言う意味?神を信じるとはどう言う意味?

 

漠然と、アイドルのポスターに向かって

”あなたを愛してま〜す”と一日3回唱えること、大きな声で

両手を天に上げて踊りながら”あなたをあ〜い〜し〜ま〜す〜”

と歌う事でも無い。それは愛情表現ではあっても、それだけ

では、何の意味も無いのです。言うはやすし。人に天国地獄行き

を免れさせるためと言う教えに基づいたその動悸から、イエス

さま信じなさいと言う事でも無い。

誰かの作り出した宗教活動に休まず、熱心に、忠実に参加し

続ける事でも無い。

 

神を信じると言うことも同じことです。神が居ると信じている

と言う事だったら、サタンも神の存在を知っている信じている

でしょうとイエシュアが言われたでしょう。

救い主を信じるって一体何?と言うことなのです。

 

神を愛する人は、父の言葉=イエシュア=言葉=神のトラー

生きる人とイエシュアが言われたその言葉そのものなのです。

 

教えられて来た、トラーは破棄された、古い呪いの律法で終わり

と言う教えを全部かなぐり捨てて、書いてある通り、

イエシュアが直接御口から語られた言葉通りを聞いてみる。

 

ヨハネ14・21

わたしの掟<トラーに書かれた詳細>を受け入れ、

それを守る人は、わたしを愛する者である。

<1世紀のヘブライ人、イエシュアのこの言葉を直接

聞いた人達は、イエシュアが言われた言葉を丸ごと理解

出来たのです。わたしを愛する人=トラーを受け入れ、

それを守り、生きる人とはっきり聞こえるのです。

たしが教えられたのは、トラーを捨てて生きることが

イエシュアを愛することと教えられて来た。真逆の教え。>

 

わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を

愛して、その人にわたし自身を現わす。

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世界は、イエシュアを信じたら、トラーを捨てて、もう終わった

呪いの律法だからトラーを生きなくて良いと教えますが、でも

イエシュアは何と言っていますか?

わたしを信じる人、わたしを遣わした父を愛する=父の言う事

=トラーを生きると聖書全体でずっと同じことを語っています。

この点だけでも、神の言葉が終わったとしている教えが、全く

矛盾している事に気が付いてみてください。

 

父の言うこと以外語らないとイエシュアが言われたのは、

父の言葉=トラーの中身です。それが父のことば。それを

イエシュアが正しく伝えに来たと言われたのです。

 

ヨハネ14・23-24

わたしを愛する人は、わたしの言葉<トラー>を守る。わたし

の父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、

一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉

<トラー>を守らない。

 

マタイ 5:17 わたしがトラーや預言者を廃するためにきた、

と思ってはならない。

<ちゃんと書いてあるでしょう。破棄するためでは無い。

破棄=トラーを誤った解釈をするために来たのでは無い。>

廃するためではなく、<成就するため=父の意図通りのトラーの

解釈を示し、生きて教えるために>に来たのである。

5:18 よく言っておく。天地が滅び行くまでは、<天地が

滅びて行かないで、今も存在しているのだから>

トラーの一点、一画もすたることはなく、<はっきり書いてある。

トラーのどんな小さな詳細、一点一画とは、トラーの羊皮紙に

書かれた小さな飾り文字まで廃る事なく>ことごとく全うされ

るのである。

 5:19 それだから、これら=トラーの最も小さいいましめの一つ

でも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で

最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これ=トラーを

おこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれる

であろう。

 

マタイ22:37〜39は、申命記6章いや、申命記=トラー全体

のハイライトです。

 

つまり、神と、隣人を神の契約の愛の姿に書かれた内容で

愛すると言うその下に 全てのトラーの内容がそれを元に

全て繋がって連なっているとイエシュアが回答された

それです。

神を愛する=その詳細がトラーに書かれている。神を愛するとは

同時に、隣人を自分と同じように愛することが網羅されている。

どの様にいかに、どうやって何をして隣人を愛するかの事細かな

インストラクションが全て!書かれているのがトラーなのです。

 

申命記6:5 あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、

あなたの神、主を愛さなければならない。

6:6 きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの

心に留め、

 6:7 努めてこれをあなたの子らに教え、あなたが家に座して

いる時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これに

ついて<トラーに付いて>語らなければならない。

 

これらの言葉、申命記に書いてある、言葉、仰せ、定め、

掟などと書かれている言葉は全て”トラー”に書かれている

要素の事を話しているのです。

 

申命記6:16 あなたがたがマッサでしたように、あなたがたの神、

主を試みてはならない。<トラーに違反してはならない>

6:17 あなたがたの神、主があなたがたに命じられた命令と、

あかしと、定めと=定め、あかし=トラーを、努めて

守らなければならない。

 

初めの愛を忘れたと言ったヨハネ。あなたは初めの愛

トラーを捨てて、忘れて生きてきたと言っているのです。

 

その預言はまさに然り、長い歴史に渡っても

”その通り”になりました。

 

続く