使徒の書簡中にも存在しない1800年代以降に出現した人造神学 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

聖書を書かれている通り、元の意味そのまま学んでいたと

思っていましたが、実は誰かの創作した思索、神学と言う

バイアス、フィルター、色眼鏡を通して聖書が解説されて

いる教えを聞いて来ました。誰かの編み出した教え=神学=

意見=思想が土台となって聖書が翻訳され、語られ、

解説されている。それは、個人個人の中にある、その人の

生まれ育った環境で培った物の見方も含まれています。

 

怒りの神と思っている人には怒りの神。温かい優しい

神と思っている人には優しい神と感じる。でもその人が

どう思おうが、どう考えようが、神の性質、実態は誰かの思想

に沿って変形、変化するものではないのです。

 

人間の編み出した教え、神学が神の言葉と同等の場所に

位置付けられてしまっているのです。人の教えは、

その人の目から見る神像であって、イスラエルの神が語る

ご自身の実態では無いことがたくさんあるのです。

 

1800年代の最初に、初めて出現した教え。これが現代の欧米

で広く受け取られ、買われ、浸透し、定着した神学です。

19世紀迄、その教え、考えは存在しなかった。

 

神学=人間が神の世界を解説するもので、それが聖書の真実

では無いのですが、神が語っている真理だと誤解されています。

 

神は、時代を7つのはっきりと区別、分断された、別々の時代

に分けて、そして、時代ごとに、神の教え、義の基準も、

契約も、変化し、別のものが提供される。人間が神のテストに

失敗するので、次々新しい対策を編み出さないとならない。

 

その神学は神が時代ごとに七変化すると言う教えです。

神の契約も七変化。それぞれの時代に於ける、神の

言葉の基準、神の顔つき、顔色、人相が変わる=怒りの神、

恵の神。普通に聞き慣れた教えでしょう。一貫性の無い

コロコロ変化する神の言葉、約束と言う教えです。

人へのアプローチも時代ごとに違う。七へんげの神の顔、対応、

性質、実態、内容。救い、恵、贖いの内容も違うと言う教え。

 

どんな神?現代まで人を放置する神はイスラエルの神ではない。

神はどの時代でも誰でも、共に住まい助けを与えて下さるお方。

人種、又は時代により人への関わり、対応が違うえこひいきな

コロコロ変わる神なんて、イスラエルの神とは違う。

 

だから、怒りの神、恵の神などと分断した変化した神像を

教えるのです。神の言葉は、完全。神の言葉は永遠普遍

変わらないと言う神の宣言と真っ向から相反する教えである事

は聖書に照らし合わせればクリアーに答えはあります。

 

聖書に照らし合わせると、その神学と聖書に書かれている

内容にものすごい矛盾が生じてしまいます。

 

思い込み=神の言葉が語ることに基づく、正確さ、透明さ、

忠実さは、翻訳には特に何より必要なことですが、翻訳者が

原語に対しての注意深い学びが無い場合、誰かの意見、思想、

自分の目からみる神の言葉の、言葉の解釈、又は空想の世界が

優先して、投影してしまうのです。

これは、実際に原語の中に書かれたものを例にあげて、別の

時に説明してみたいと思います。

 

デイスペンセーショナリズム、デイスぺンセーション神学と

も言われている、19世紀に初めて出現した教えは、それまでの

時代には存在もしなかった新しい教理コンセプト、人造神学

 

その神学は19世紀後半、20世紀にかけて、広く人気を博する

教えとなるのです。その神学が浸透した理由は、後に出てきた

スコッフィールドと言う人が、この神学仮説を証明する、

浸透させるために、一つ一つの箇所に付き、全て人間の考えで

編み出した解説、注解を聖書のページの中に挿入し、

様々な聖書箇所を一つのテーマに繋げて理由づけて作った、

リファレンス聖書。チェーンバイブルと言われる聖書を出版

した結果、デイスペンセーション神学の教えが世界に広く浸透

し、受け入れられ確固たる位置を確立したのです。

 

しかも、翻訳なので、聖書に無い言葉がぞろぞろ付け足された

り、デスペンセーションを解説するには不都合な聖書箇所を

ざっくりざっくりそれこそ大幅に全部消したのです。

1161キングジェームス版の聖書同士を比べたら、はっきり

分かる。いやヘブライ語聖書と比べたら、本当に分かる。

 

これって、神の警告に反する事、違反行為そのものです。

人間が勝手に神の言葉に手を加え、付け足し、削除する。

聖書の意図とはズレた解説がされてしまっている。人の考えで

創り出した出した神学が正しいことを証明する意図のために、

編み出された翻訳聖書なのです。

 

初めはイスラエルが契約を受け取る代表として選ばれ

たが、後に霊的イスラエル=異邦人=教会が代表になったと

言う教えです。これは1世紀にもあったローマのユステイノの

主張した置換神学も繋がっています。人間の知恵による教え

の創作の連続です。

 

しかも、2重構造契約と言う教えです。ユダヤ人だけが

やっていればいい教えと主張する。神が言われる事とは

違う事は、聖書に戻れば明らかです。しかも別の契約書など

この世のどこにも物理的にも存在しない、口頭でも伝えられて

もいないものです。空想の世界と同じです。フィクション。

 

二つの契約で、どうして世界が1体になれるのか?と考えた

だけでも分かると思うのですが。根本が分裂だから。

隔ての壁を取り除いたとあるのに、人間が隔ての壁を作り

続けている。

 

同じ元の木に接ぎ木されただけの異邦人、イスラエルと同じ

羊の囲いに入られたと書いてあるのに。ただ一人の羊飼いと、

全世界の羊は同じ囲いの中に入るのが神のプラン。

イスラエルの同じ契約に加えらただけと書いてある。

 

翻訳を外して、元のヘブライ語に戻すと、教会と言う言葉や

コンセプトは聖書に無いものです。これも翻訳トリックです。

途中から別物が出たと誤解させる翻訳造語です。

別々の契約、家族が存在すると印象付けて教えるために、

ヘブライ語の一つの言葉=”カハール”を、マラキ以前は、集会

と訳し、福音書以降は教会と訳した。別物の新しい契約を

受け取った契約受理者が出現したと言う教えを、証明、

裏付けるためです。完全な反則だらけ。

 

イスラエルも異邦人も、始めから同じ一つの契約に加えられた

”呼び出された人達”=カハールエクレシア。その継続が1つの

家族。これを教会と言う造語で置き換えるから、神の言葉が

語る真実が見えなくなるのです。

 

これらの神学を編み出した人達は、誰一人ヘブライ語聖書を

ヘブライ思索で学ぶ訓練を全く受けていない人です。

思索が異教徒ローマギリシャ哲学思索で線上に神の世界を

眺めている思想です。

 

 

 

 

続く