偽りを認める重要性 神の前に真実だけを語る | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

勇気あるカトリック教会の司教さんが、公共の場で、

シャバットは神が曜日を変更したのではなく、カトリック教会

が変更したと発言しています。ではなぜ根本を変えないのか?

それに関しては発言していませんが、事実に気が付き発表する

と言う勇気ある行動です。

 

日本語自動翻訳字幕で何となく内容を捉えられる動画が

あります。

 

神の記念日を日曜日に変えたのはカトリックと公宣言

動画

 

英語圏では、たくさんの資料がありますが、

19世紀にダービーが編み出したデスペンセーション神学を

信仰、信奉する人達=実はこの教えは、19世紀まで存在しなか

ったものです。この神学を、欧米の殆どのキリスト教会が

広く受け入れたのです。そこから、レフトビハインドの様な

コンセプトなども生まれました。

それが現代の信仰思想の土台になって、その神学が疑いも

無く聖書の真実、教理だと受け取られてしまいました。

アメリカの神学校でも広く教えられ、著名な説教者達が

その教えを通して眺める聖書理論を講壇から語っています。

 

でもこの様な教えは1世紀の使徒達の中には無い、19世紀

まで無い教え、コンセプトなのです。その教えのプロダクト

が製造される1800年代までは。

 

分断思索、二重構造契約、置換神学が真実ならば、アダムと

エバから始まり、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、

モーセ、ダビデ、預言者達、使徒、パウロ達は皆聖書に関して

全く無知、神の言葉に関して違う事を考えて捉えていた?

デスペンセーションの七変化の神に関して聖書が語られて

いた事に、完全に無知であったと言う事になってしまいます。

 

神の言葉、この事実を曲げて解説する神学、教理、学説は

世の中、世界中に山ほど、たくさんあります。シャバット、

祭り、食物規定、割礼、全てのユダヤ色あるものは2000年

前に終わった、トラーのライフスタイルは全てユダヤ人だけが

やれば良いものだと普通に聞いて来たと思います。

 

でも聖書のどこにそんな事が書いてあるのか、ちゃんと読めば

真実が書いてあります。その様なデユーアル=二股2重の別の

契約がありユダヤ人だけやってれば良い教えとか、そんなもの

聖書になど書いてない。切り貼り付け足しした聖書を作った

人達の翻訳聖書には、平気で聖書に無い文章がつけたされたり、

その神学にそぐわない箇所は切り取られている事実

ありますが。

 

もちろん、女性、男性、祭司だけに関して、それぞれ特別な

役割、立場に関しては書いてあります。それらは神殿=神の

家の中に入る時に関する規定はありますが、その事柄を通して、

家族全体について何かを教えている事があるのです。

 

細かく一つ一つ学ぶと見えてきますが、全ては”タメー” 

”タホー” 命を生み出す状態に留まる事を教えている。

命を生み出さない状態は、周りを生かさない、いや死んだ

状態で生きてしまうと言う教えがちゃんとその中に入って

いるのです。

 

アブラハムが何故、全世界の国民の父、祝福の源とされ

たのか。

その意味がはっきり捉えられて、理解出来ればその様に

分断した教え、契約、分断した、世界の家族像など出て

来ない。一つのもの、二つのステイックが最後に一つに

なると言う意味が消えてしまう。

 

その教えに基づけば、聖書に書いてあるイエシュアに在り、

1体と言う意味が不明になってしまう。しかも、アブラハムを

通して与えられた契約は、”義”とされた事実。異邦人とて

同じなのでは、無いでしょうか?カウントされるのは、

神の業の事実を受け取る、つまり信仰=それだけです。

新しい人である事実。それが全く意味が無くなります。

2つの契約、二つの分断した家族である教えに基づくと。

しかも、トラー=同じ元の木=婚姻契約に異邦人も接ぎ木

されたと聖書に書かれているのです。神の言葉を変えたのは

人間。

 

Catholic changed Shabbat  and Festivalsと言う様に

入力するとたくさんの資料を閲覧出来ます。

閲覧しなくても聖書に”永遠普遍の代々に渡り神の創造物

天と地が存続する限りと言う強調を持って、シャバット

記念日、契約、神の言葉は変わらないと神が宣言している

一言で100%真実が証明されているのですが。

 

カトリック教義についての書の中で、カトリックの信条に

対する質疑応答があります。

その中でのカトリックの証言です。

 

質問カトリック教会が、神の祭りを独自に制定する権威

力を持っていると証明できる何かがありますか?

 

答えその様な力をカトリック教会は持っていない。

現代の宗教家達全て、カトリックがその様な力を持って

いない事に同意しています。

カトリック教会は、神の記念日、第七日目である土曜日に

実施するものを、週の第一の日の日曜日に置き換え、代用する

事は許される事では無いから、出来なかったのです。

日曜日の記念日に変更する事は、聖書の権威に根拠が全く無い

変更であるのです。

 

ドクトナル カタキズム 

ステファン ケナン司教

 

ジェームス カーデイナル ギブソン 大司教の発言が

記されている書にこの様に書いてあります。

 

”創世記から黙示録まで読んでみて、ただの1つの箇所の

文章にも日曜日が神により聖別された日である事が

書かれている箇所は、全く無いことをあなたは発見する

でしょう。

聖書では宗教的記念日を土曜日に厳守し実行することが

書かれており、我々ローマカトリック教会が第七日目

聖別して祝ってないだけである。”

The faith of our Fathers 88th 版 89ページ

 

2000年近くに渡り、全世界で多くの人に信じられている

教え、教義、神学だから、それが正しいとは絶対に言えない

のです。なぜなら、世の中には、真実ではなくても、世界中

が信じている偽仮説はたくさんあるからです。

 

神の言葉の世界とて同じです。神の言葉がどの様に変えられて

行ったのかその痕跡を調べると、明らかに神が預言した様に

神の言葉を塗り替えて、”別の福音”を作り出す人達が居る

からです。その人たちは、神の仰せをガードせず、神の言葉に

平気で手を加える。付け足し、削除すると書いてあります。

 

その通りの事が早くも1世紀に起きていた。その事実に目を

向けない限り、神が神の言葉、契約を変えたと言う誤解の

教えを土台にしたままになってしまうのです。

 

何をどう信じるかは、その人その人個人の問題であり

神の前に一人一人が確認して問うこと、決める事で、

誰かに強制されるものでは無いのです。

 

でも、正しい情報に根付く事。これをしないならば、自分の

信条が真実なのか、それとも誰かの製造した教えを信じて

居るのか不明なままになります。そして、真実ではない事を

真実だと思い込んでいる場合は、他者を同様に誤りの教えに

導く危険があることは聖書に忠告されています。

盲人〜神の言われる事実を知らないまま、他者を導いたら

危ない落とし穴に一緒に落ちると警告されている通りに。

 

だから、神の語る言葉の真実だけに戻らないとならないのです。

人が作り出した、神学、教えではなくて。神の言葉に戻る事を

もし反対する力があるのなら、それはどの霊から出ている

かでどころは明らかでしょう。

 

一人一人が、なぜ書いてある神の言葉と、実際に信じている

事、聖書に対する取り扱いが全く違うのか?と確認しなくて

はならない。

 

聖書だけに戻れば、神の言っている事が真実なのは、当然の

真理なのですから、永遠普遍の神の契約、言葉、約束と言う

ことが事実、真実である。途中で変わらない。

 

 

 

続く