農作業に携わったり、植物を育てている人達は、毎日作物、
植物を手入れ、観察しているので、植物の育成に関して、
理屈なく理解出来ることがあります。
物理的、肉体的、霊的と言う言葉、これらはギリシャ思想、
ギリシャ語概念から来ているものです。
イエシュアが地上に来られる以前に、初めてギリシャ語で
ヘブライ語聖書が翻訳されましたが、その時迄、その様な
概念、思想は、聖書翻訳の世界に入り込む事は全く無かった
のです。
ヘブライ語の世界では、一つの存在は、全く1つのコンセプト。
霊と魂などと言う別々に分けられている意味の言葉で
表されてはいない、つまり1体です。
目に見える世界と、目に目えない世界と言った方が
分かりやすいと思います。
以前プランターで育てていた植物が、暑さのためにしおれて
いるのを発見。水を与えたら、即座にまっすぐにシャキンと
元どおりに生き返った。分かりやすい。水を与えれば
生き返る。命をふきかえす。
生ける水と表現されている神、神の言葉イコール神、
神の言葉=トラーそのものが、実際に肉体を取って地上に
目に見える形で現れて、本物の人間を生きた、
イエシュア=生ける水。
生ける水=救い主=実際にイエシュアを飲むわけではない
のは誰でも分かることです。
イエシュア=肉体となって来られたトラーを私たちは内側に
取り入れて生きると書かれています。
”人は神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる”と
書かれている事と同じです。
そして、人間は神の”息”=霊を吹き入れられて生きるものに
なったとある通りです。神のエッセンスを入れられて
始めて生きるものとなった。
純粋な水ではなく、添加物満載のドリンクを喉が渇いた時に
飲んでも一時は、渇きが癒されたと思うけれど、
水を飲むのと全く違いますね。なんだかもっと何かを
飲まないと渇きが収まらない。
添加物=混ぜ物を飲み続けると本当の渇きは癒されないです。
神の仰せ、警告、トラーに書かれている教えの中で、
混ぜてはダメだと言うことが書かれています。
それは、農作業を通して=別々の種を同じ畑に撒いてはダメ。
別種の動物を掛け合わせしてはダメ。
麻とウールを混合に混ぜて織物をしてはダメ。
実際の生活の中で神が教えているのです。
しかも調べると、それは肉体にもダメな要素になるのです。
混ぜたら危険だからです。混ぜたら別物に変身。
神の言葉が宗教に変身、別の教えに変身してしまうのです。
的外れになる。
神の言葉への混ぜものに繋がるのです。
トラーから預言書、諸書、そして福音書以降の書簡の中にも
同じように、注意があります。
別物=混ぜ物=別の福音への警告が書かれています。
人種により、別種の二つの神のトラーは無いからです。
これこそが、まさに人間の作り出した都市伝説の教えです。
人類が誕生したエデンの園から、神の造られた人間の
生きる全て=神のインストラクション、教えは実は全く一つ
同じなのです。神の性質=エハッド=複数で全く1体と
同じ性質です。マッチしているのです。それがヘブライ語聖書
にはちゃんと記されています。
翻訳を読んでも分かると思いますが、エデンの園から
飛び出した直後、なぜアベルとカインがいきなり
コバーンを捧げている場面が描かれているのでしょう?
何の前置き、説明無しに突然書かれています。始めから全部、
エデンの園の中で神から直接アダムは全てを教えられていた
からです。聖書は時系列で書かれていないからです。
誤解を紐解くために、不真実な情報をきちんと把握、認識する
必要があります。全て知っているのだと思う、自分の考えが
100%正しい、欠けが無いと思い込む。いや実は正しくない
情報を伝授され続けているのに、気が付いて無いだけかも
しれないのです。
進化論を信じるクリスチャンは、余り居ないと思いますが、
<実は中には居るのです。>なぜ全世界がこの様な馬鹿げた
偽科学の仮説を、これほどまでに盲目的に信じ込まされて
いたのか?と言う事と同じです。
誰かの空想、発想、仮説=この裏には”無神論”いや無神論より
意図的に神に挑戦する勢力、力があるからです。
カウンターフェイト。神の造られた世界を、否定する、
曲げる、ひねって解説して行く力が潜んでいるからです。
その嘘の情報を流し続けられると、その嘘がいつの間にか、
世界に真実として定着する。
どこに居ても流される情報、ニュースが、100%真実だと
は言えないのと同じです。
嘘を浸透させられてしまう一番の手段、方法は、教育機関を
通してです。学校で進化論を教えられたのです。学校で、
教科書に書かれているから、それが真実だと思う。
子供のころからずっと仮説を教えられてしまうから
そう思い込んでいる。
そして世界の神学校で、神の言葉の真実とは違う神学、
人間の編み出した神の言葉の解説を真実だと信じ、
その結果、神の言葉で記された神とは異なる、偽の神像を
植えつけられてしまうのです。
変化する神、二面相の神、イスラエルを放棄した神であると。
神の造られた世界=目に見える世界と、見えない世界、霊的と
敢えて言いますが、その世界はぴったりマッチしています。
一体です。しかも、聖書に書かれている絵画的要素、言語も
ぴったり創造物を通して何がしかの性質を表しているのです。
神の言葉=永遠普遍だと神が宣言しているのに、歴史の途中で
変化したことにされてしまっている教え=その誤解を解かない
限り、ヘブライ語、オリジナル聖書に書かれている真相は
見えてこないのです。
いや、逆を言うと人間の教えで塗り替えられてしまった
神の言葉の本当の真実を知れば、真相ははっきり見えて来る
のです。そうすると、どの様なことがあるかと言うと、
真実に神に出会う。もちろん出会っていますが、本当の神の顔
=性質、関係に中に、神の意図通りデザインした関係の中に
入って行ける。
人間関係でも同じです。相手の性質を誤解したままで、
誤解の覆いがかかったままでは、関係に隔たりが出来て
しまいます。ピュアで、透明、陰りの無い喜びの関係は
結べない。それと全く同じです。
人の解説する神像で覆い隠された本物の神の顔。
もちろん神には人間の様に顔なんて無いです。
でも、顔と言うヘブライ語が表す言葉は、直に対面すること。
対面=本当の姿で関係を結ぶ事。神の実質の中で直に神との
関係に入る事でもある事がヘブライ語の言葉の中では顕著に
分かるのです。そう書いてあるから読み取れる。
神が”わたしの顔の上に別の顔を置いてはならない”と警告した
意味は、まさにそれでしょう。自分が損なわれる。神を本当
の意味で知る扉を塞がれてしまう。
あなたのために、厳重警告、そうするなかれ。
詰まり本当の関係に入りたい、体験したい、ナファーシュ=
神の用意してくれた神の中に、ぴったり居心地の良い状態の中
からずれてしまうからです。人との関係の中でも、相手の事を、
誤解をすれば、本当の相手の真実、性質、実態にいつまでも
経っても出会えない、知ることが出来ない。自分想像の相手像
では、隔ての壁が出来てしまう。
よって深い喜びの関係を結べない事と全く同じでしょう。
続く