人は、生まれてこの様に親に抱かれて、親の顔から自分が
誰かを学んできたのです。自分を養う、育てる親の役割を
する人達が発信する”あなたは誰か”と言う自己像から、
自分が誰であるのかを学習してきたのです。
自分を見る目、語りかけて来る声、言葉が神の意図通り、
愛情たっぷり優しさに満ちたものなのか。
それとも、怒った顔、沈んだ顔、批判と裁きと文句と
小言でいっぱいなのか。
子供は親の顔を見て自分が誰かを学習して行くのです。
親の顔が歪んでいたら、子供は自分のせいで親がその様な
顔をしていると思うのです。自分が悪いから?
野生の動物、狼に育てられたら、人間なのに狼の自己像を
学習して狼そっくりな生き方、行動をし、人間なのに、
自分は狼=動物としか考えられない存在になって
しまうのです。人間として思索、言語も発しない、
行動できない、動物そっくりそのままを生きてしまうのです。
全て学習です。自己像も学習です。
誰に植え付けられた、誰に教えられた”自己像”の衣を着て
生きているのでしょう?と言う神から問い、アブラムに
語られた同じ問いが私たちにも問われているのです。
あなたはわたしが贖い出し、わたしがあなたに救い、贖い
義の衣を着せたと言われたのは神です。
自分を考えたら、肉の耳には信じがたい事に聞こえますが、
神の言われることが真実です。
もしも、自分の子が生まれた日から、それ以前から、
”あなたはどんなにダメな存在で、どれほど罪深い性質なのか
とことん知りなさいよ。”と言う事を言い続けられて
しまったとしたら。1年365日、来る日も来る日もそんな
歪んだ、トキシック=毒な言葉ばかり言われ続けて成長した
ら、その子供は、毒な言葉からどの様な自己像を形成する事を
予想、期待するのでしょう?
親から毒、害がある言葉を与えられ、食べさせられ続けて
成長すれば、必ず歪むでしょう。歪んだ言葉から、歪んだ
自己像を形成するのです。確実に間違い無く歪みます。
その言葉通りの自己像を形成する。神が語る本当の自己像を
伝えてもらえず、毒な言葉をずっと語られてしまったら
歪んでしまい、本当の自分に出会うことが出来なくなって
しまう現象が起きるのです。
偽の自己像が語る注解は、神の似姿に造られている”自分の
本当のエッセンス”に反するからです。命の木からだけ食べる
性質とは異なる、知識の木=神の意図から外れた言葉を
食べるからデザイン、エッセンスが破壊されるのです。
自分に語られた言葉通りの自己像を人は形成してしまうから
です。当然の事です。そして、自分が自分に語る自己像にも
注意を払わないと同じことが起きてしまうのです。
自分の脳回路は、自分の繰り返す言葉で記憶、認識を作って
行くからです。歪んだ頭脳は、歪んだ思索を生み出して
しまう。
神の言葉に沿って、神の意図通りを語る、伝えなくては
ならないのです。人にも自分にも。神の語る言葉に対して、
人間の注解=違う解説をしてはならないのです。
神の語る言葉は、責め、攻撃の世界とは違います。
確かにアダムとエバは、ずれたのです。神では無いから
ずれる可能性があったのです。PDFファイルでは無い、
行動思索が固定されているリモコンで操作されるロボット
の様に生きる様に造られていない。しかも、神の側で
一方的に”対策”を全て用意して下さっているのです。
永遠の中から。
どうしてずれるのか?そのからくりをはっきり知る。
神の言葉を退けて、別の教えに聞き入り、神の言葉とは異なる
言葉を受け取り信じ生きれば、簡単にずれてしまうことが
書かれています。シンプルな事実です。
神の言葉を取るか、退けるか、人は選択出来る自由が
与えられていることが始めに書かれています。
命の木からだけ食べなさい。その神の言葉に、異議ありと
やってしまった最初の人間、アダムとエバ。そんな単純な
事の中に人類最大の悲劇が眠っている事も知らないまま。
でも、人間のもともとの性質は、”神の似姿”に造られたと
ある、それが神に造られた人間の本当の姿なのです。
それは、永遠から神により保存、取り戻されている事実が
福音の事実なのです。
ズレた、ハメッツ=パン種を取り入れれば、ピュアな小麦粉も
偽のパン種で、偽物の姿に膨れ上がるのです。
ハメッツとは、神の言葉とは違う事、異なる要素です。
神のデザインとは異なる要素、エッセンスに反するもの、
異物を取り入れて生きることです。神の言われる事と、
違う事を信じて生きれば、偽物の姿になってしまうのです。
でも、神がそのパン種を取り除いている事を始めから教えて
います。古いパン種を取り入れ続けるなとも書かれています。
過越の時に”パン種”が無い姿にされているのだから、
その状態で過越を祝おうとパウロが語っている言葉そのものが
神の真実です。パウロはレビ記23章の神の記念日を祝い、
それを生きるように異教の地に居たイエシュア信者達にも
教えているのです。人間の語る”終わった教え”とは
全く違う事をパウロが書いていることに気が付いてみるのです。
パウロが1世紀のイエシュア信者、そのほとんどが海外に
散っているユダヤ人が中心の信者達へ、手紙の冒頭には
”聖徒たちへ”と書かれています。罪人達へなどとパウロは
書いていないのです。
一コリント5・7—8
「キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られた。
だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、
パン種の入っていない、純粋で真実のパンで祭りを祝おう。」
古いパン種=邪悪なパン種=イエシュアと共に死んで
葬られて今存在しない、でも記憶の中にしっかり学習して
いる神の似姿に反する要素、学習してなってしまった
嘘もの、偽物の自分を繰り返し生きるなかれと
書かれています。
続く