別の顔が生み出す別の表情 別の自己像 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

人は、生まれてこの様に親に抱かれて、親の顔から自分が

誰かを学んできたのです。自分を養う、育てる親の役割を

する人達が発信する”あなたは誰か”と言う自己像から、

自分が誰であるのかを学習してきたのです。

 

自分を見る目、語りかけて来る声、言葉が神の意図通り、

愛情たっぷり優しさに満ちたものなのか。

それとも、怒った顔、沈んだ顔、批判と裁きと文句と

小言でいっぱいなのか。

子供は親の顔を見て自分が誰かを学習して行くのです。

親の顔が歪んでいたら、子供は自分のせいで親がその様な

顔をしていると思うのです。自分が悪いから?

 

野生の動物、狼に育てられたら、人間なのに狼の自己像を

学習して狼そっくりな生き方、行動をし、人間なのに、

自分は狼=動物としか考えられない存在になって

しまうのです。人間として思索、言語も発しない、

行動できない、動物そっくりそのままを生きてしまうのです。

全て学習です。自己像も学習です。

誰に植え付けられた、誰に教えられた”自己像”の衣を着て

生きているのでしょう?と言う神から問い、アブラムに

語られた同じ問いが私たちにも問われているのです。

 

あなたはわたしが贖い出し、わたしがあなたに救い、贖い

義の衣を着せたと言われたのは神です。

自分を考えたら、肉の耳には信じがたい事に聞こえますが、

神の言われることが真実です。

 

もしも、自分の子が生まれた日から、それ以前から、

”あなたはどんなにダメな存在で、どれほど罪深い性質なのか

とことん知りなさいよ。”と言う事を言い続けられて

しまったとしたら。1年365日、来る日も来る日もそんな

歪んだ、トキシック=毒な言葉ばかり言われ続けて成長した

ら、その子供は、毒な言葉からどの様な自己像を形成する事を

予想、期待するのでしょう?

 

親から毒、害がある言葉を与えられ、食べさせられ続けて

成長すれば、必ず歪むでしょう。歪んだ言葉から、歪んだ

自己像を形成するのです。確実に間違い無く歪みます。

その言葉通りの自己像を形成する。神が語る本当の自己像を

伝えてもらえず、毒な言葉をずっと語られてしまったら

歪んでしまい、本当の自分に出会うことが出来なくなって

しまう現象が起きるのです。

 

偽の自己像が語る注解は、神の似姿に造られている”自分の

本当のエッセンス”に反するからです。命の木からだけ食べる

性質とは異なる、知識の木=神の意図から外れた言葉を

食べるからデザイン、エッセンスが破壊されるのです。

 

自分に語られた言葉通りの自己像を人は形成してしまうから

です。当然の事です。そして、自分が自分に語る自己像にも

注意を払わないと同じことが起きてしまうのです。

自分の脳回路は、自分の繰り返す言葉で記憶、認識を作って

行くからです。歪んだ頭脳は、歪んだ思索を生み出して

しまう。

 

神の言葉に沿って、神の意図通りを語る、伝えなくては

ならないのです。人にも自分にも。神の語る言葉に対して、

人間の注解=違う解説をしてはならないのです。

 

神の語る言葉は、責め、攻撃の世界とは違います。

 

確かにアダムとエバは、ずれたのです。神では無いから

ずれる可能性があったのです。PDFファイルでは無い、

行動思索が固定されているリモコンで操作されるロボット

の様に生きる様に造られていない。しかも、神の側で

一方的に”対策”を全て用意して下さっているのです。

永遠の中から。

 

どうしてずれるのか?そのからくりをはっきり知る。

神の言葉を退けて、別の教えに聞き入り、神の言葉とは異なる

言葉を受け取り信じ生きれば、簡単にずれてしまうことが

書かれています。シンプルな事実です。

 

神の言葉を取るか、退けるか、人は選択出来る自由が

与えられていることが始めに書かれています。

命の木からだけ食べなさい。その神の言葉に、異議ありと

やってしまった最初の人間、アダムとエバ。そんな単純な

事の中に人類最大の悲劇が眠っている事も知らないまま。

 

でも、人間のもともとの性質は、”神の似姿”に造られたと

ある、それが神に造られた人間の本当の姿なのです。

それは、永遠から神により保存、取り戻されている事実が

福音の事実なのです。

 

ズレた、ハメッツ=パン種を取り入れれば、ピュアな小麦粉も

偽のパン種で、偽物の姿に膨れ上がるのです。

ハメッツとは、神の言葉とは違う事、異なる要素です。

神のデザインとは異なる要素、エッセンスに反するもの、

異物を取り入れて生きることです。神の言われる事と、

違う事を信じて生きれば、偽物の姿になってしまうのです。

 

でも、神がそのパン種を取り除いている事を始めから教えて

います。古いパン種を取り入れ続けるなとも書かれています。

過越の時に”パン種”が無い姿にされているのだから、

その状態で過越を祝おうとパウロが語っている言葉そのものが

神の真実です。パウロはレビ記23章の神の記念日を祝い、

それを生きるように異教の地に居たイエシュア信者達にも

教えているのです。人間の語る”終わった教え”とは

全く違う事をパウロが書いていることに気が付いてみるのです。

パウロが1世紀のイエシュア信者、そのほとんどが海外に

散っているユダヤ人が中心の信者達へ、手紙の冒頭には

”聖徒たちへ”と書かれています。罪人達へなどとパウロは

書いていないのです。

 

一コリント5・7—8

「キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られた。

だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、

パン種の入っていない、純粋で真実のパンで祭りを祝おう。」

 

古いパン種=邪悪なパン種=イエシュアと共に死んで

葬られて今存在しない、でも記憶の中にしっかり学習して

いる神の似姿に反する要素、学習してなってしまった

嘘もの、偽物の自分を繰り返し生きるなかれと

書かれています。

 

 

 

続く