歴史の中で作られた人造の伝統、伝説と神の言葉の事実を区別しないとならない | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

普段は朝は6時前には起き、お弁当を作りながら、立ったまま

そこら辺にあるものを食べて、食事をしたのかしないのか、

不明な感じで過ごすのが通常ですが、今朝は久々にのんびり

一緒に来た長年の友人と外が見える素敵な窓側の席でゆっくり

朝食を楽しみました。

積もる話が山ほどで続きの残りはまた夕食の時。

 

伝統として語り継がれた教えの中には、聖書とは関係ない

いや聖書に書かれているけれど、神が作り出した仰せではない、

神の創り出し行事や記念日でないものがあります。

または聖書に書いてあるものとは、違う”神の家”に属する

シンボルや習慣、習わしなど。

 

もちろん、結婚記念日とか、誕生日とか、それぞれの記念日

は、文化の中の個人の記念日であり、神の仰せで誕生日や

他の記念日を祝っているのではないのです。

この世のシステムも神が生み出したものではない。

だから、絶対に学校に行かなくてはならないとか、

絶対に会社に勤めなくてはならないとか、そのライフスタイル

神からの仰せではない。世の作り出したシステムや価値基準

乗ってるだけであり、他の選択肢もあるのです。

世の作り出した物差しで、自分の価値を測れ、量られ、

計られていると分かれば、それに合わせて自分を評価しなく

ても良いことが分かるのです。

 

個人の記念日を祝う事は悪い事でもないですし、自分の歴史の

特別な日を祝うのは嬉しい事、楽しいことです。

国の記念日もあるし、多くの記念日=例えば、日本のしきたり

の中での皆が祝う記念日はどんなものがあるのか。

生まれる事に関しては、戌の日、お七夜、お食い初め、

お宮参り、古希、喜寿、傘寿、米寿など。

葬儀では、初七日、49日、一周忌などなど。

七夕、七五三、節句、節分。。。様々な記念日または祭りが

あります。

そのほとんどの裏側には、なにがしかの”神々”への祈願が

ぴったりくっついています。

日本の皇室では、様々な行事の裏には、”神道”の儀式が

くっついています。神々へ保護、繁栄の祈願が伴わない行事を

探す方が難しいと思います。

 

宗教の世界でも、神の仰せで祝っている、やっているのでは

ない様々なことがあります。

 

例えば、聖書の中に記録が書かれていますが、シャバットに

イエシュアが街囲みの中の場所でトラー朗読をしたくだりが

あります。

土曜日にその場所に集まると言うのは実は”神の仰せ”では

ないのが事実です。でも、常にトラーを子供達に教えるのは

神の仰せなのです。

どうしてそのような場所が作られたのか、調べると分かります。

聖書に出てくるパリサイ派、その様なグループに属するラビ達

が神の宮はエルサレムに1つしか作ることが出来ないので、

自分たちの住う地方の場所でも、同じ様な機能=もちろん捧げ物

やその他レビ族祭司達が行う事は出来ませんが、

”コミュニテイの集まり、交わりの場所、交流、祈り、学び、

相談ごと、又トラーを朗読するそんな場所”が欲しいと考えて

編み出したラビ達のインヴェンション=発明物が会堂という

言葉で訳されている言葉なのです。

 

神の仰せだから、シャバットにその場所に行かなくては

ならないのだと言う事とは異なるのです。

でも、15世紀、グーテンベルグにより印刷技術が発明される

まで、今の様な書物の形はなく、全て聖書はトラーの巻きもの。

手書きで一つ一つを専門筆記者<翻訳に律法学者と訳されて

しまっていますが、本当はトラー筆記者です。>により

書き記される今の値段で言えば、一つ何百万もかかる普通の

庶民が家庭で所有できるものではないのです。

 

だから、古代ヘブライ人の世界では、”トラー”を丸暗記する

のが普通の事であり、それを家長が家族に教える=神が

寝ても覚めても常に一日中子供らに神のトラーを教える様に

命じられています。トラー=知恵の大元の知恵を知ることが

教育の”一番基本、土台”だからです。

 

だからコミュニテイに1つトラーがあれば、それを皆の前で

朗読出来る場所が欲しい。そして毎週1度、トラー朗読を聞き、

それを暗記して覚えると言うのが古代のヘブライの世界

だったのです。

別にその場所に行かなければならないと言う”神の仰せ”では

ない。家のお父さんがトラーに精通していることが望ましい

のです。本来は。お父さんがトラーを教える役割を与えられて

いるからです。それが神の造られた家族のデザイン。

歴史の途中で”会堂”なるものが人により発明されて作られた、

それだけの話です。

だから、その場所に行かなくても、神に逆らっていると言うの

でもないのです。神の言葉によればそれは事実ではないのです。

罪悪感を人に抱かせる教えを作るのは常に人です。

神の言われたことだけを基準にすれば良いのです。

 

神がなんと言っているのかが大事なのです。シャバットは

”家に於いて”ガードしなさいと書いてあります。

それが事実なのです。

神の言葉の事実を変えるから、意味が変形してしまうのです。

どこかへ行って何か活動をやる日ではないのです。

シャバットは人の子のため、人と家族の修復の時だからです。

しかも何百人も一緒に集まったら、準備も大変だし、

親しい近しい交わりの意味が失われてしまいます。

 

最近プレミアム金曜日?と言うのが日本であるらしいですが、

家族が集結、向き合う時間を持つために、お父さんは

その金曜日は余計な飲み会断って家に帰ろうと言う

意識になれれば、子供達も家族と集うと言うこと、

家族が第一と言う意識を取り戻さないとならないのです。

 

シャバットは、その意味が分かり実行すれば必ず神はその中で

特別なことをしてくださいます。私はシャバットの意味を

以前は知らないし、もちろんやってないから分からなかった

のですが。それでなくてもすれ違い、バラバラな家族の

週のスケジュールなのですから家族を結び合うものであること、

神の言う通りにやって見れば理解出来る様になっていきます。

家族を壊すことがエネミーの目的です。ここが壊れるから

世界が壊れるのは一目瞭然です。

 

 

 

続く