午前中の多国籍軍団の添乗員?のお仕事も一段落して、
一人ゆっくり雪景色を眺めながらランチをしました。
食べたものは、一番安い”山かけそば”ですが、美味しかった。
久しぶりにゆったり優雅な時間を過ごしました。
友達家族がランチに山から降りて来ていたのと、
午後のスクールの集合場所に、いつものインストラクターの
先生方に会いにひょっこり出かけました。
懐かしい数人の先生にお会いできて、楽しいトーク、ジョーク。
いつもこの時期に来られる前回も同じレッスンのクラスで
一緒になった東京から来られている方々にも、ばったり
お会いして楽しい一時を過ごしました。
いつも同じ時期に同じ場所に来る人々と知り合いになります。
なんだかここも故郷みたいな感覚に陥ります。
去年広いゲレンデで私の名前を叫ぶ?呼ぶ人が居るので誰?と
自分の名前を呼ばれると、条件反射的に振り向くものですね。
知り合いなんていたっけな?と怪しい感覚を抱きながら、
声のする方を振り返ると、海外から毎年来られる常連の外国人
だったと言うことも。
夕方4時には真っ暗になる厳しい北国ですが、本当に美しい
白一色。雪国もそれはそれで素敵です。
神が造られた世界を観察すれば、神に気が付けない、
知らなかったと言い訳出来ないと書いてある通りに、
神の創造物を観察すると様々な事が自然界からも教えられる
事が分かります。
今回は滑らないので、やる事が限られて、プールや温泉三昧
で半ば休憩気味ですが、雪景色と流れている水を眺めている
だけで、見えてくることがあります。
雪よりも白くと書いてある通り、どのような白さなのか
雪を知る人は分かります。南国に住む人たちなど、世の中には
雪を生まれてこのかた実際に見た経験がない人たちも居ます。
水も添加物無しのピュアな状態ですと、氷になっても
その結晶はクリスタルクリアー。そして、その同じ水が雪と
なれば。。。しかも、雨も雪も天から降って来る。
その上にあるのは、天の義の御座。
タへレットブルー=神の義を表す”紺碧”その青空=神の
義の御座から降る雨、雪。雪は白く木々や大地を覆います。
神の義の衣=白い衣を着せられた天から降りて来て与えられた
”既成事実”であると聖書には書いてあります。
それは、自分が今日コケるから、失敗するから罪人のままで
あると言う教えで、一方”義人”は信仰により生きると唱える。
真逆の教え、人は義とされているが実はまだ罪人と言う
ラベル付けの教えを同時に唱える。
義とはまだされていませんと言う事を言っているのですね。
では、信仰で生きる人は義人と書いてあるのには、どうなるか。
義の実態を神から与えられた人は、信仰により生きる。
偽義人?矛盾に気が付いて見れば分かる。
罪人は信仰により生きると書いてあるのか?自分で調べてみる。
よく考えるのです。神が何を言われているのだけを根拠にする。
自分理解の悟りに頼るなと言われる。なぜなら、神が語れて
いる世界は人の理解を超えているからです。
今日こけても、あなたは義人とされている事実は変わらない
のです。
なんだか本当に矛盾だらけの信仰告白をしていました。以前は。
世界の教える人間神学と、神の目から見る”人間像”が
全く異なる事が書いてあるのです。
人の目から見た、人が判定した”人間とは”と言う教えと、
神の言われる”義”とされた事実である事は全く相反している
から、人間の悟りを通して神の完了の業を語るから、
どうしてもずれてしまうのです。しかも信じ難い事実で
しょう?神の業で100%を信じる事ができないから、人の編み
出した自分の理解に納得行く解説に、
落ち着いているだけなのです。
だから聖書には成長と言う言葉が書かれているのです。
猿が成長しても、人間にならないのです。
罪人が努力で成長したら、神のトラーを努力で生きたら
義人になるのでもないのです。
赤ちゃんが成長したら、どんな道をも歩ける成人になる
と書かれています。
赤ちゃんの中には、全ての可能性=性質が埋め込まれている。
良い地=トーヴの地=神の意図通り、神の言葉を食べて、
生ける水=神の言葉を飲み日々生きれば、
それはやがて常に実を豊かに結ぶ成人の木になる。
私たちの本当の姿は、神の似姿に造られた人というのが
神の言葉の語る真実だからです。
あなたは神の言葉を信じているのか?それとも人の教えを
信じているのか?ずっと神に問われ続けているのです。
神のわざ=恵を無駄にするのか?と。
詩篇1 黙示録22
白い雪を見る時、天から降りてきて神が与えてくれた
本当の自分の衣=実態、姿を目で見て確認出来ます。
神の義が世界を覆う、青い空。青い空、天の御座から
直接降る水=雪 青、白=神の義を表す実態で
私たちは取り囲まれている事深い実感を持って
感謝して受け取る。そしてそれを生きよう!神が
言われるから。
あなたはもう既に義とされている。
神が一方的に与えた事実でそうされている。
自分の努力でそうなったのではない。もともと神に
造られた、神の似姿に創造された自分は永遠の中から
既にアンタッチャブル=保存されている。
それを今生きれるようにされているとずっと書いてあります。
申命記30:14
そして今朝、朝風呂の中で歌ってみた”小さい頃に”歌った歌。
”主我を愛す”。ヘブライ語に直して歌ってみた。。。
インパクトが全然違います。
ありてあるお方に、”永遠の婚姻契約”で記されている、裏切り
途中で約束解除がない、”アハバ”〜婚姻契約の愛で守られ
愛されている。永遠に。永遠に変わらない神の言葉=約束。
創造主、他の神々とは異なる名を持つお方。神がモーセに
尋ねられ答えたその名。”君の名は”何? ”あなたが誰だと
人に言えば、あなたから託宣された言葉であると信じて
もらえるのでしょうか?””あなたの名=実態は何?”と聞いた
モーセ。神は答えます。
”過去、現在、未来、永遠普遍の在りて在るもの。”と言う名の
神で在ると伝えなさい。永遠普遍!!!途中で約束をひるがえ
さない神。ローマ西洋神学の語る神とは全く異なります。
西洋医学と東洋医学。根本的なアプローチが違うのと同じ。
神の言葉が語る内容の本質が違うのです。
そこで、考えてみた。イスラエルの神を信じた後、どこで
そのお方の実態を知る事が出来るのだろうか?体験を通して、
又は瞑想、祈りを通して?と言うかもしれない。でもそれら、
祈り、瞑想をする根拠=大元=土台、基準、証明場所は何か?
なのです。それは常に神の言葉なのです。祈りとは、神の言葉
に基づいて神の前で思い巡らす行動であると書かれている
のです。これらを読んで、イスラエルの神がどんな方か
知ったのではないのでしょうか?
神の言葉が全ての根拠なのです。言葉が人=イエシュアと
なって地上に現れたとある。言葉で世界の全てが神により
造られた。神は言葉=メムラの神と書かれているのです。
”神の言葉”を読んで、知って初めて、このお方がどんな方で
在るのか自分の想像ではなく、ぼんやりとした発想、イメージ
ではなく、ダイレクトに神ご自身が語られた言葉の中で
知る事を否定するならば、それでは、それぞれの体験上の
イメージ上の空想の神になってしまいます。それぞれの空想
するところの、神の言葉が解説するところの実態の
何の根拠にも基づかないそれぞれの発想、空想の世界の神像。
だから、そうではなくて、神ご自身が語られる”言葉”に語ら
せる、と言う抜本的な軌道修正をしない限り、宗教の世界の
教えの暴走はずっと続くのだと思います。
神の語る言葉に語っていただく。神の言葉、神が残した”証拠”
から全てを根拠にするように、神が言われた事がはっきり
聖書に書いてあります。
これを捨てたら迷い出る。聖書の70%を終わった事にしてし
まった、この世のエナミーの言葉の方に聞き入れば、当然の
ごとく世界はどんな方向にも迷い出る事は免れない。
だから、地の塩、世の光の役割であると自称するならば、
それはどんなことなのか?聖書に書いてあります。
続く