もっと究極の神の言葉のど真ん中に戻る軌道修正 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

午前中の多国籍軍団の添乗員?のお仕事も一段落して、

一人ゆっくり雪景色を眺めながらランチをしました。

食べたものは、一番安い”山かけそば”ですが、美味しかった。

久しぶりにゆったり優雅な時間を過ごしました。

 

友達家族がランチに山から降りて来ていたのと、

午後のスクールの集合場所に、いつものインストラクターの

先生方に会いにひょっこり出かけました。

 

懐かしい数人の先生にお会いできて、楽しいトーク、ジョーク。

いつもこの時期に来られる前回も同じレッスンのクラスで

一緒になった東京から来られている方々にも、ばったり

お会いして楽しい一時を過ごしました。

いつも同じ時期に同じ場所に来る人々と知り合いになります。

なんだかここも故郷みたいな感覚に陥ります。

 

去年広いゲレンデで私の名前を叫ぶ?呼ぶ人が居るので誰?と

自分の名前を呼ばれると、条件反射的に振り向くものですね。

知り合いなんていたっけな?と怪しい感覚を抱きながら、

声のする方を振り返ると、海外から毎年来られる常連の外国人

だったと言うことも。

夕方4時には真っ暗になる厳しい北国ですが、本当に美しい

白一色。雪国もそれはそれで素敵です。

 

神が造られた世界を観察すれば、神に気が付けない、

知らなかったと言い訳出来ないと書いてある通りに、

神の創造物を観察すると様々な事が自然界からも教えられる

事が分かります。

 

今回は滑らないので、やる事が限られて、プールや温泉三昧

で半ば休憩気味ですが、雪景色と流れている水を眺めている

だけで、見えてくることがあります。

雪よりも白くと書いてある通り、どのような白さなのか

雪を知る人は分かります。南国に住む人たちなど、世の中には

雪を生まれてこのかた実際に見た経験がない人たちも居ます。

 

水も添加物無しのピュアな状態ですと、氷になっても

その結晶はクリスタルクリアー。そして、その同じ水が雪と

なれば。。。しかも、雨も雪も天から降って来る。

その上にあるのは、天の義の御座。

タへレットブルー=神の義を表す”紺碧”その青空=神の

義の御座から降る雨、雪。雪は白く木々や大地を覆います。

 

神の義の衣=白い衣を着せられた天から降りて来て与えられた

”既成事実”であると聖書には書いてあります。

それは、自分が今日コケるから、失敗するから罪人のままで

あると言う教えで、一方”義人”は信仰により生きると唱える。

真逆の教え、人は義とされているが実はまだ罪人と言う

ラベル付けの教えを同時に唱える。

義とはまだされていませんと言う事を言っているのですね。

では、信仰で生きる人は義人と書いてあるのには、どうなるか。

義の実態を神から与えられた人は、信仰により生きる。

偽義人?矛盾に気が付いて見れば分かる。

罪人は信仰により生きると書いてあるのか?自分で調べてみる。

よく考えるのです。神が何を言われているのだけを根拠にする。

自分理解の悟りに頼るなと言われる。なぜなら、神が語れて

いる世界は人の理解を超えているからです。

今日こけても、あなたは義人とされている事実は変わらない

のです。

なんだか本当に矛盾だらけの信仰告白をしていました。以前は。

世界の教える人間神学と、神の目から見る”人間像”が

全く異なる事が書いてあるのです。

 

人の目から見た、人が判定した”人間とは”と言う教えと、

神の言われる”義”とされた事実である事は全く相反している

から、人間の悟りを通して神の完了の業を語るから、

どうしてもずれてしまうのです。しかも信じ難い事実で

しょう?神の業で100%を信じる事ができないから、人の編み

出した自分の理解に納得行く解説に、

落ち着いているだけなのです。

 

だから聖書には成長と言う言葉が書かれているのです。

猿が成長しても、人間にならないのです。

罪人が努力で成長したら、神のトラーを努力で生きたら

義人になるのでもないのです。

赤ちゃんが成長したら、どんな道をも歩ける成人になる

と書かれています。

赤ちゃんの中には、全ての可能性=性質が埋め込まれている。

良い地=トーヴの地=神の意図通り、神の言葉を食べて、

生ける水=神の言葉を飲み日々生きれば、

それはやがて常に実を豊かに結ぶ成人の木になる。

私たちの本当の姿は、神の似姿に造られた人というのが

神の言葉の語る真実だからです。

あなたは神の言葉を信じているのか?それとも人の教えを

信じているのか?ずっと神に問われ続けているのです。

神のわざ=恵を無駄にするのか?と。

詩篇1 黙示録22

 

白い雪を見る時、天から降りてきて神が与えてくれた

本当の自分の衣=実態、姿を目で見て確認出来ます。

神の義が世界を覆う、青い空。青い空、天の御座から

直接降る水=雪 青、白=神の義を表す実態で

私たちは取り囲まれている事深い実感を持って

感謝して受け取る。そしてそれを生きよう!神が

言われるから。

あなたはもう既に義とされている。

神が一方的に与えた事実でそうされている。

自分の努力でそうなったのではない。もともと神に

造られた、神の似姿に創造された自分は永遠の中から

既にアンタッチャブル=保存されている。

それを今生きれるようにされているとずっと書いてあります。

申命記30:14

そして今朝、朝風呂の中で歌ってみた”小さい頃に”歌った歌。

”主我を愛す”。ヘブライ語に直して歌ってみた。。。

インパクトが全然違います。

ありてあるお方に、”永遠の婚姻契約”で記されている、裏切り

途中で約束解除がない、”アハバ”〜婚姻契約の愛で守られ

愛されている。永遠に。永遠に変わらない神の言葉=約束。

 

創造主、他の神々とは異なる名を持つお方。神がモーセに

尋ねられ答えたその名。”君の名は”何? ”あなたが誰だと

人に言えば、あなたから託宣された言葉であると信じて

もらえるのでしょうか?””あなたの名=実態は何?”と聞いた

モーセ。神は答えます。

”過去、現在、未来、永遠普遍の在りて在るもの。”と言う名の

神で在ると伝えなさい。永遠普遍!!!途中で約束をひるがえ

さない神。ローマ西洋神学の語る神とは全く異なります。

西洋医学と東洋医学。根本的なアプローチが違うのと同じ。

神の言葉が語る内容の本質が違うのです。

 

そこで、考えてみた。イスラエルの神を信じた後、どこで

そのお方の実態を知る事が出来るのだろうか?体験を通して、

又は瞑想、祈りを通して?と言うかもしれない。でもそれら、

祈り、瞑想をする根拠=大元=土台、基準、証明場所は何か?

なのです。それは常に神の言葉なのです。祈りとは、神の言葉

に基づいて神の前で思い巡らす行動であると書かれている

のです。これらを読んで、イスラエルの神がどんな方か

知ったのではないのでしょうか?

 

神の言葉が全ての根拠なのです。言葉が人=イエシュアと

なって地上に現れたとある。言葉で世界の全てが神により

造られた。神は言葉=メムラの神と書かれているのです。

 

”神の言葉”を読んで、知って初めて、このお方がどんな方で

在るのか自分の想像ではなく、ぼんやりとした発想、イメージ

ではなく、ダイレクトに神ご自身が語られた言葉の中で

知る事を否定するならば、それでは、それぞれの体験上の

イメージ上の空想の神になってしまいます。それぞれの空想

するところの、神の言葉が解説するところの実態の

何の根拠にも基づかないそれぞれの発想、空想の世界の神像。

 

だから、そうではなくて、神ご自身が語られる”言葉”に語ら

せる、と言う抜本的な軌道修正をしない限り、宗教の世界の

教えの暴走はずっと続くのだと思います。

神の語る言葉に語っていただく。神の言葉、神が残した”証拠”

から全てを根拠にするように、神が言われた事がはっきり

聖書に書いてあります。

 

これを捨てたら迷い出る。聖書の70%を終わった事にしてし

まった、この世のエナミーの言葉の方に聞き入れば、当然の

ごとく世界はどんな方向にも迷い出る事は免れない。

だから、地の塩、世の光の役割であると自称するならば、

それはどんなことなのか?聖書に書いてあります。

 

続く

 

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