オリジナルに戻る 神の言葉から不純物を取り除く | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

アダムが一人でぽつんと存在することは、良くないと神が
言われました。
 
良くないと言う言葉を元の言葉に戻すと、”良い”〜トーヴ。
良くない=ロー トーヴ=神の意図通りではない。
本来の状態ではない、神の意図通りではない、
デザイン通りではない。エッセンスにマッチしない状態である。
 
もしもこの世界が、美しい音色の音楽も無く、色も白黒2色
だけで、匂いも無く、味わうことも出来なくて、肌で感じる
ことも無い世界だったら、どんなにつまらないんだろう。
エデンの園、環境汚染も遺伝子組み換えも、添加物も、
破壊も何もないもともとの世界は素晴らしい!世界だった。
その中に居る事、神の中に居る事、天と地を同時に歩く世界。
いつか、神の創造物が全て元に戻る日が来る。
 
こちら、もう冬休み休暇に入っていて、恒例の”日本”で過ごす
ツアーの添乗員?をしています。3回目なので、大分なれました。
 
転勤族であり海外に住みながら、故郷で育つのと同じく、
幼馴染が居るとか、長い間友人関係を保つことは至難の技です。
 
これは、誰でも感じることだと思いますが、親しくなったのに、
別れる事を続けているから、辛い。もう友達作りたくないって
悲しんでた人がいましたが、気持ちは分かります。
多くの人達は数年で、次の場所に移動して行くからです。
置いていかれる方が、実は別のところに移動する人より
辛いんだよね〜とも。今ではチャットもあるので、実は一生の
友人に出会うことも多くあるのです。
家族や親戚以上に蜜な関係が出来上がるのです。
そして、お互いを支え合う、サポートすると言う事を自然に
するのです。頼れる親、兄弟、親戚が居ない環境だから。
考えればサバイバルと言う感じです。
 
自分の国を遠く離れて、家族や親戚と離れて、その時折の意味
ある祝いや、家族の行事、記念日に一緒に過ごすことが出来
ない家族として共通の思い出を作る時間に欠けてしまうから
です。
そうすると、身近な友人たちと本当に家族の様な親しい関係を
結ぶ。人は、誰かと繋がってる、属したいと言う願望、必要、
基本的ニーズがあるからです。向き合う関係の中に、
1つ家族として存在するものとして、神に造られたからです。
 
子供達の仲間の中の二人は、3才くらいからの”幼馴染”。
仲間内では、数年以上は一緒に居るので、家族のような
親戚のようなとても理想の関係が続いています。
彼らの成長を身近に見て嬉しくもあります。
皆が隣近所に住み、いつも一緒に居て、行ったり来たり、
泊まったり。同じスクールに行っているので、同じ行事や
修学旅行も一緒に行き、休みも一緒に過ごし、旅行までも
一緒に行く。今回は親戚の家で一緒にお正月まで過ごします。
家族ぐるみで皆が知り合いです。
 
何より、喧嘩もしたことがないほど仲良しと言うところが
本当に見ていて、嬉しく心温まります。その関係から、
色々とこちらが学ぶ事がある。
友達の悪口を言う子が居ないのです。
しかも、若者の話題の内容で、世界を学習している自分も居る。
一緒の会話に混じると、年を忘れて10代に気持ちが
戻っているところが又楽しい。
この仲間とシャバットや仮庵、ハヌカなどもやっています。
そうすると、やはりお互いが存在していることは、
神からの”ギフト”である事を改めて、考える、感謝するのです。
 
そして、この世界は人類全員で”一つの家族”であることが
書かれています。その家族=二つに別れたステイックが
最後に一つに戻ることが、ちゃんと聖書に書かれています。
一つに戻る=それが神の壮大のプラン、福音の中心。
一つに戻ろうとしている過程に、別々の分裂した”神の家の
家訓”があったら全く意図通りにはなれないのです。
一つの国家にいくつもの別な”憲法”があったら立ち行かないの
は誰でも理解できる事なのです。
 
神の言葉の事実だけに基づいて考え始めると、実に、聖書は
全く始めから終わりまで同じことが書かれている事に気が
つくことが出来ます。目の前に書いてあっても、書いてある
通りに読み取らない、気が付けない理由は、神の言葉が途中で
変化したと言う都市伝説=ローマの教えを元にして
考え続け、読み続けているからです。
 
500年前以前の世界の人達は、古代から天動説を信じていた。
500年前以降は、地動説になった。動いてる感じが全くしない
のに、時速66600キロの速さで動いていると皆信じている。
それと同じことです。何を根拠に信じているのかで、
信じている内容、自分の思索の世界が変わってしまうのです。
 
でも、人間がどんな主張をしても、”神の創造、神の言葉”の
事実は永遠に変わらない。
人の教えで塗り替えても、事実は嘘の仮面の下にちゃんと
存在しているのです。その人の嘘で隠された裏にある、私の
真実を発見して!と神が呼びかけている、待っている。
闇は光に打ち勝つことがとができないとある通り。
 
ローマの人造の教え=人造の教え=神の真実を否定する教え
を一掃する一大軌道修正すれば良いのです。
神の言葉=ヘブライの神=ヘブライのエロヒーム。
ローマのエロヒームの語る教えを根拠にしない。
 
神は全てを”人のために造られた”と書いてある通り、
神の創造された世界の全ては、本来素晴らしく、美しいもの。
裏と表の世界のように。神とサタンとはっきり”区別”出来る。
聖別とは、区別=分かたれることです。神のものと、神に属さ
ないものの区別です。
 
同じ神が造られた音の世界でも、美しい音色を奏でることが
出来る一方、耳にはうるさい騒音や不協和音を奏でてしまう
ことも出来る。
神の造られた世界を変形するのか、そのままピュアに保つのか
それによって生み出される結果が違ってくるのです。
神の命を生み出すのか、死=神との別離、セパレーションか。
 
アダムがアバ父と手と手を取り合い、神の造られた素晴らしい
エデン=喜びの園の中を歩き、生きて、そして神から直接
神のトラー=人の生きる全てを教えられていたのに、
そんな究極の近さに居たのに、神の言葉を疑ったのなら、
尚更、エデンの園から遠く遠く離れた場所に生まれ出た人たち
は、神の中に、神の言葉の中に留まり、神の言われる事=言葉
を聞く事に神経を集中してと言われた意味が納得できます。
 
目で見えない現実を、目で見るがごとくに生きるとは、
本当に神の言われる言葉の中、外と内の境界線の囲いの中に
留まり続ける事であることが書かれています。
 
知恵の言葉=神のトラーを捨てたら迷い出ると書いて
ある通りに。
 
 
旅日記、年末に向けての、”ヤロベアム”高きところの
棚卸など、徒然に書いていきます。
さあ、出発です。太陽が何万光年も先にあったら
光なんて届かないし、肉眼でこんな大きく太陽を
見ることが出来ない、認識出来ないでしょう。
数キロ先のものだって見ることが出来ないのに。
人の作り出す嘘ってすごい横断幕、仮面です。
自分で事実に基づき考える事を始める。