イスラエルの神=イエシュアに出会った後、神がこの世界を
造られたと言うことを、創世記のはじめを読んで、初めて
知りました。インスピレーション、天から声がしてそれを
知ったのでは無いのです。”聖書”=トラーに書かれている
神の私への掲示を読んで知ったのです。
そして、進化論が嘘だと言うことも、神の言葉を読んで
初めて知りました。他の皆さんも同様に”聖書”を読んで、
創造主である神がどんなお方なのかを初めて知ったはず
だと思います。
神は居ると漠然とは感じていても、その神の存在が
事実である確信、神の実態は聖書を読まなければはっきり
とは分からないのです。分かると言う方が無理です。
分かるなら、神は”文字”で書かれたトラーをモーセを
通して人類に与える事が、無駄だと言っているのです。
そして、神がどのように助けるのか、神の言葉に書いてある
通り、必要の全てを満たしてくださる神と言う根拠が
日々の出来事を通して明らかに自分の神との実体験として
自分のものになって行くのではないでしょうか。
誰がどう何を語り、何を信じていても、それが”神の造られた”
神の世界、神が定義する、語る”神はどんなお方か”
”自分は誰か?””神の造られた世界はどんなものか?”を変更
することなど出来ないのです。事実は事実で永遠に変わらない。
つまり自分が自分として生まれたのに、生まれた後に
別の人に生まれ変われないのと同じ事なのです。もう決まって
いる。神の事実は永遠に決まっている。途中で変わらない。
人が唱えるところの教え=歴史の途中で変わると言う教えと
神の言われる事は全く違うのです。
宗教が生み出されて、どれだけ多くの人が世界中で1700
年間に渡り信じ続けられた教えだとしても、伝統の教えが、
神の言葉をキャンセルすることなど出来ないのです。
神の語られた事実は永遠に固く存続し、存在し続けて
行くから。
神の事実は、人が作り出した教えで塗り替えることが
出来ないのです。
神に取って”神の記念日”がとても重要であることが
トラーに書かれています。神の記念日は福音の全てを
表しているものであり、生きて体験する学習ツールでも
あるからです。言ってみればモアデイムは神の業そのもの、
第七日目=完了の業が完成している印。
人間の生きる姿そのもの、天の国に住うリハーサルでもある。
子羊の婚姻の宴のリハーサルでもある。その中には、新しく
されている=義とされている人の事実、そして、以前は奴隷
でも今は神の子らとされている事実。復活を祝う記念日も
ちゃんとその中に入っており、婚姻契約を受け取った日もあり、
そして、新しい人を生きる上で不必要な”パン種”をそぎ取る、
捨て続ける学習の日を教えられ、そして、イエシュアの初臨、
再臨も全部入っている。
王の王が王の座に座る宣言=戴冠式と、そして”神の審判”
と言うと聞こえ方が恐ろしいですが、ヘブライ語の意味は
”神の義”が世界をおおう、人間の不正、不当、歪みを終わらせ
る、デリヴァランス。全世界が人間の世界の騙し、不義、
理不尽な苦しみから解放される日が来る。全世界、創造物全部
の修復。
人間がやり続けているこの世界の不当な事が消える日が来る。
全部入っているのです。後から人間が考え出したまつりごとを
付け足しする必要がないのです。福音に何も人間が付け足せ
ないことを理解すれば解ります。神の業は完全と唱えながら
歴史の途中で神の福音を表す記念日を人間の考えたものにより
編み出したものを付け足さないとならないと言う教えを
同時に信じている矛盾に気がついたら早いです。
誕生日や記念日も、もちろんイスラエルの神を信じている
人たちは、異教の神々の慣しやシンボル、儀式を混ぜたり、
又はダイレクトに異教の神々の神殿で祈願なんてしようとは
考えないでしょう。
大晦日、除夜の金を突きに行く親戚と共にその場所に行っても、
自分は神社仏閣で異教の神々に向かって拝まないでしょう。
もしそれをするならば、完全に混ぜ物の宗教を生きていますと
世界へ行動を持って示していることになってしまうのです。
ありてあるお方の名を汚す行為。
聖書に書いてあることを理解すれば。イエシュアを信じながら、
異教徒の仕来りの全て=例えば占いしたり、異教の神々信奉
したり、風水元に家を建てたり、紛い物の印、シンボルを身に
つけたり、異教徒が食する神の禁じたものに手をつけたり、
神社の神々に祈るなんて事をするのは、完全に混ぜ物=”
高き”所であると、とても分かりやすいです。
隣の人が異教徒でも、彼らと近所付き合いをしても、彼らの
信仰や習わしを自分の中に、自分の家庭には取り入れない、
取り入れてはならないと知らないとならないのです。
聖書に基づけば。
イスラエルの神は異教の神々と手を取り合ってエキュメニカル
に仲良く渡り合って生きましょうなんて絶対に言わない、
書いてないです。いや反対が書いてあります。
聖別とはまさに、この世の神々と”完全に”境界線を引く事で
あることがはっきりと書かれています。
その目的は、世界の中で、”イスラエルの神の子ら”の印を
生きて、人々を神の中=エデンの園の入り口に引き戻す
地の塩、世の光の役割を担っているからです。
イスラエルの神を信じるならば、神の家に属すると宣言する
ならば、紛い物、混ぜ物を取り入れられないことが書かれて
いるのです。
でも、その紛い物、混ぜ物が何か=高きところが何かを知る
必要があるのです。
この点がとてもゆるゆるなのです。ぼやけて見えない。
伝統で様々な混ぜ物、紛い物を取り入れていてもそれが
分からない。
神が忌み嫌うことが何であるのか、はっきり書いてあります。
だから、トラーを捨てたら、それらが何かぼやけてしまうの
です。
自分基準の世界と手を取り合い、交わるエキュメニカルが
良いことの様に思えるからです。
騙されると言うことを、多分誰でも体験していると思います。
それが、情報であったり、内容、質が説明と異なる物を
買わされたり。オレオレ詐欺に合ったり。
お店で不当な料金ぼられた~など誰でも体験あるはずなのです。
どうして、騙されたら嫌なのか?どうして騙してはいけない
のか?それはトラーに書かれているからです。
それは、神の似姿に造られた人間のエッセンスに反する
異物だから、嫌だと思うのです。
騙されて嬉しい。騙した人もいい気持ちなどしないと思います。
必ず、エッセンスと反した行動したら、傷つけた相手も自分も
同様に傷つくのです。騙されて嬉しいなんて考える人は居ない。
それが、神のデザインした人間=腹に書かれたトラーが
拒絶反応を示すからです。
人を批判することは、神の造られた人間の性質と反しています。
反感買わずに、批判の意味なく、同時にどうやって事実を
伝えたら良いのか迷うのものです。神が居ないと信じている
人たちに、神が居ると言う事を伝えるのは難しいことを誰でも
経験しているのではないかと思います。
進化論を信じる人に、私たちは神に造られたと言いづらいです。
真実をキャッチ出来る、理解可能な土台が聴衆の脳回路の中に
無いからです。真実が網目を抜けて素通りする。
続く