オリジナルの本物に戻る ハヌカ シャバット | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

昨日は、いつもより大勢のお客さんを招いてシャバットを

するので、朝から準備、いや水曜日頃から、他の用事を

済ませる前準備。

忙しい日でしたが、シャバットが始まってからはゆっくり

出来る様に。もし用事が終わらなくても、一旦土曜日の夕方

まで、据え置き。

アバ父が言われたことを、練習する格好のレッスン。

自分の手に追え無いことを委ねる。

天から2日分のマナが降ったことを思い出す。

”あれな〜に?”と見たことのないものが、天から降って来た。

天から直送の命の糧を、初めて見た荒野でのイスラエルと

異邦人たちが言った言葉が”マナ”と言う言葉になっています。

あれ何?の意味が”マナ”と言う言葉で表されている。

 

家族の友人達が集って、シャバットとそしてハヌカに

ふさわしい楽しい一時となりました。

長々とした儀式はないのですが、シャバットを迎えるに

当たっての、子供達への祝福の祈り、シャバットがどうして

”神に設けられた”のかを短い説明。

そして、大地の実りを与えてくださった創造主への祝福の

祈りと、感謝。

そして、ハヌカの意味と歴史の史実の説明を、家長に

やって頂きました。ハヌカとは、どんな背景があるのか?

 

シャバットは必ずイエシュアもされていたであろう同じ

祝福の祈り、パンをさいて、祝いの盃を掲げる。

<これは、過越の時の儀式とは違います。過越でイエシュアが

婚姻契約の再更新を弟子達に認識させるために、強調された

あの3杯目のワインを祝し、”種無しパン”=要らないものが

そぎ落とされた姿=を表すものでされたものとは

違いますが。>

ハヌカは、種無しパンの意味とも繋がっています。

私たち、要らないものがそぎ落とされた贖われた人々は、

”種”=不純物=神に属さないものを自分の中に再び

取り入れ続けて生きることができない。

これがハヌカのメッセージの中心でもあるのです。

混ぜ物を取り入れ続けて、神の宮である自分自身を混ぜ物で

汚染し続けてなおも神の宮を正常どおりきよくは保存できない。

神の意図通りに機能していない。

 

ワイン=ぶどうジュースの杯を掲げる時に、”ラ ハイン”と

言う掛け声をします。日本では”乾杯”ですが。

 

ラ ハインとは、”命”へ祝福と言う意味です。

お互いの存在がお互いに対しての祝福、そして神からの贈り物

である事をこの時に皆で思い出し、互いの存在、

命を祝福し合うのです。

 

シャバットが神により人のために造られた事実は、永遠に

変わらないのです。人が歴史の途中で神の言葉を捨てて

変えてしまっても、神の言葉の事実、神の造られた

オリジナルの記念日は永遠に変わらない。

その証拠が聖書にはっきり書かれています。

第七日目がシャバット。その他の記念日はレビ記23章に

クリアーに詳細が書かれています。

 

人は、神の言葉=神の口から出た一つ一つの言葉により

生きるとある通り、神が言われた通りを聞いて、

生きるように造られているのです。

これを無視するから、エデンの園から飛び出て、約束の地から

飛び出て不具合が生じ、争い、破壊が生じるのです。

 

明日の日没までハヌカの祝いが続きますが、

ハヌカは、聖書のテーマでもあります。

”捧げる”ハヌカ。この言葉は、レビと言う言葉にも

繋がっているものです。地上と天の祭司。

 

神が人に教えられている事が何であるのか、

トラーを読めば分かって来ます。逆に神の言葉を捨てたら

それぞれがそれぞれの思いのままの方向に迷い出ると書いて

あります。

神の言葉=神が言われている事を、もう無効です、

関係ありませんと読まなければ、来たお手紙を読まずに

食べたシロヤギさんと黒ヤギさんのように、

託されているメッセージの意味が分からないままに食べたら、

何を言われているのか分からないままと言う、あの童謡の

様な結末になります。

 

ハヌカは、神の家=神の宮=人は神の宮として、

神が共に私たち=宮の中に住うことを神が

切望しているのです。神が天から下り人の内側に住うのです。

わたしたちが天に登るために努力するのではない。

神が住まえる”家”〜”宮”の状態でいる事、それを神が私たちに

伝えているのです。

だから、その神の家に”汚れた別物”を持ち込んで神の目に、

忌まわしい、混ぜ物で紛らわしい、荒れ果てた、荒廃した性質

=特に神に属さない神々のものを混ぜて運び入れることが

出来ないのです。

 

神の宮に運び込むことが出来無いもの詳細は、

トラーにクリアーに書かれています。

異教の神々と混ざったしきたり、習わし、習慣。

そして、神の子らの生き方の全ての詳細。

どの様に、夫婦が、家族が、兄弟が、コミュニテイが

社会が、生活の細かい細部まで、食べ物、飲み物、

記念日、衣服、家、畑、農作業、ビジネスに於いて、

人の生きる全ての詳細がちゃんと書かれているのです。

 

これは、神がけちで、口うるさく、人を見張り

厳しいからではない。

神がこの世の全てを造ったのだと信じるならば、

神のみが、この世界がどう機能するのか、人がどう生きるの

かの全てを知っている只唯一のお方なのです。

そのお方だけが、全てを語ることができる。

人がどの様に生きるのかはっきり細かく伝えている。

 

聖別の反対は罪ではないのです。

聖別とは、神に属するものと、そうではない=共同のもの、

その区別、はっきりと”区別”することを教えている

レッスンでもあるのです。

2種類の種を同じ畑に蒔いてはならない。2種類の毛を混ぜて

織物をしてはならない。タホー=きよい タメー=汚れた

2種類の動物。人は神に属さない汚れたものを食べられない。

神の宮にふさわしくないタメーな動物を、神の宮である

自分の肉体にも取り入れない。霊的、肉体的とわけない。

1つで”ネフィッシュ”生きる存在と書かれているのです。

霊、肉両方、どんな状態でも別物と混ぜられないと言うこと

を教えているのです。

 

人は、神が指定したもの=神の言葉=だけを食べて

生きる存在であること、別物の言葉を聞き入ったら

死ぬと始めに書かれている通り、命を生み出せない。

だから、神の指定したもの=命の木からだけ食べる。

神の言われたこと以外の食べ方をしたら、

アダムとエバは”死”ぬと神が言われたのです。

単純でも、奥が深い真理なのです。神の言葉を無視する

イコール、命を生み出さない状態に自分を汚染して

しまうということなのです。

 

神の子ら=人は神に属さ無い異教の神々に属する

ものと交り続けながら、取り入れながら、高き所を

根こそぎ一掃しないまま、神のデザインした、神と

人との深い、親しい、顔と顔を向き合うことが出来る

状態の関係が結べないからそれを教えているのです。

 

Shabbat Shalom

 

 

ギリギリ間に合って、後はゆっくりシャバットの宴を

皆で楽しもう。

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