このシャバットは、とても楽しく有意義な出会い、会話、
交流がありました。
日曜日から木曜日の午前中<第一日から第5日目>までに、
大きな労働を終わるように、第七日目が始まる6日目は
必要な買い物を終える、事務仕事を終える、そしてシャバット
を迎える準備をするように、1週間をプランして日々の生活の
時間を分配して過ごして行くと、毎日が”主=YHWH” "יְהֹוָה”
の暦、時間表に沿って生活している事、実体感します。
シャバットを迎える準備をする事が楽しみになる。
意識が常に神の言葉に向いている。
対話の中にいる。アバ父がデザインした日々のリマインダーが
目にも飛び込んで来るし、また実際に衣食住全部の
インストラクション中に、神のリマインダーが物理的に
設定されているので、そのインストラクション通りに生きる時
にだけ、発見する事実があることに気がつくのです。
神の言われる通りに?意義ありと言えるのでしょうか。
神の言われた通りに。これが基本原則なのです。
人間は神、創造主にデザインされたので、
デザイナーのデザイン通りに生きる時にフルに”命”溢れる
生き方になるからと書かれています。
神はまことに賢い知恵に満ちたお方で、神のデザインされた
”人”の生き方を、神御自身がよ〜くご存知。当たり前ですが、
創造の始めから、エデンの園から神の言葉、神の暦、神の
造られた記念日は変わらないのです。
そう聖書に書いてあるのです。
月、星、太陽、天の万象は、イルミネーション、神の記念日を
司るために作られたと聖書には書いてあります。
そして、エデンの園の中で、始めからアダムとエバは
”神のトラー”を口頭で聞いていたのです。神のトラーの詳細
全部が書かれて渡されたのが、シナイ山での出来事=
シャヴオートの時です。
先入観を捨てて聖書を読んで見ると分かります。神の言葉は
神が言われたように歴史の途中で絶対に変更、変化が
ないのです。
これを、西洋宗教が”変わった”という事に、神がするなかれと
警告したにも関わらずに、神の言葉に手を加えて勝手に変えて
しまった。
つまり、神の言葉への遺伝子組み換え操作をしてしまった
のです。味も見かけも匂いも似ている。だけれど本質が違う。
いや遺伝子組み換えの食物は味がちょっと変、臭い。
それと同じ。神の言葉なのに、宗教に変身してしまう。
遺伝子組み換えは、神の創造されたものとは違う。人間に
取って、遺伝子組み換えを体内に取り入れたら、
体の内部を破壊する、ガンや免疫体系を破壊、又は
病気を生み出すものなのです。
なぜなら神の創造されたデザインに反しているから。
神の言葉以外の物を取り入れたら死ぬと言われたように、
遺伝子組み換えされた食物、又は食べてはだめと言われた
食べ物、そして神の言葉以外を食べたら、本来の”命が死ぬ”。
生き生き生きる命=ネフィッシュ ハヤと神が人を呼ばれた
その様な状態から外れてしまう。すぐにではない、でも必ず
じわじわ阻まれていく。命に陰りが出てくる。
最初の最初に、神は6日目までに、全ての創造をされ、
その業が完了したと書かれています。
そして、神と人と”婚姻契約”の中にちぎりが結ばれている
”印” ”証拠” ”保証の目印”として、”第七日目をシャバット”と
して祝う、そしてその記念日に”止まる”という事をする。
つまり、全ての業、全ての必要な事が全部備えられている
その”事実”から人が生きるように造られていることが
ちゃんと書かれています。
祝うために止まる。神が止まったから止まる。人は
神がされるように同じように生きる。
イエシュアがされたように生きる。イエシュアは第七日目
であるシャバットで止まり、地上でレビ記23章に
書かれた神の記念日の全てを祝ったのです。
その日は”意味がある”その日を人間が遺伝子組み換えして
変更してはならないと書かれています。
なんどもなんども、シャバットを汚すなかれと書かれています。
私は、自分の間違い、誤解、勘違いに気が付くことを
心の底から願っており、真実を日々探っています。
神の言葉に対して間違っていた理解、また誤解を知ることは
私の中では非常に大歓迎な出来事なのです。なぜならそれは、
神の本当の姿、神の真実に目が開かれる、嘘ではなく、本当の
事を知る、真実の扉神の家の奥の間に通じる扉が一つ、
また一つと開かれていく事だからです。神の言葉=イエシュア
そのものの実態に触れる事だからです。
自分が見聞きして来た伝統の教え=人間の教え=神の言葉に
根拠を見出せない教えに固執すれば、真実に目が塞がれた
ままになるからです。
色々な状態、タイプがあると思いますが、ガマリエル大先生の
ように、パウロの証言を議会で聞いた時に、正直に、”もしや
この人は真実を語っているのかも”知れないと公の場で
発言した様な態度は大絶賛に値します。使徒5:34ー39
使徒5:39 しかし、もし神から出たものなら、あの人たちを
滅ぼすことはできまい。まかり違えば、諸君は神を敵にまわす
ことになるかも知れない」。
大先生が、そのような一弟子の突拍子も無いと思われる証言に
耳を傾け、もしやこの事は”神から出ているならば”それに
反する事を言う、するならば、我々が神に対して冒涜的な
事をしている事になると言う見解をする頭脳が
ラビ ガマリエルにはあったのです。
自分の考えとは、見聞きしてきた事とは違うパウロの証言に
付いて、考えようとする態度、その態度があるという事は
いかに大事なのかという記録です。
人は、ある事柄に疑問を持ち始めると、考え始めます。
質問、疑問がどんどん出てくる。そして、その先はその疑問
を放置するのか、それとも真相を決定的に探るのかの違いです。
自分で根拠、証拠を調べる、探る、調査する、検証する
情報を並べてみて何が本当なのか、証拠、事実だけを基に、
考えようとし始める。これをしたならば、もう真実に
たどり着く道に入って行く状態なのです。
”求めよ、そうすれば与えられる。探し続けよそうすれば、
見つけられる。”
でもその時に、自分の感覚や、自分の意見、また神の言葉に
全く根拠を見つけられない人の教えや神学を土台にしては
ならないのです。
続く