命への冒涜 遺伝子組み換え 神の言葉の組み替えの恐怖 弊害 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

このシャバットは、とても楽しく有意義な出会い、会話、

交流がありました。

 

日曜日から木曜日の午前中<第一日から第5日目>までに、

大きな労働を終わるように、第七日目が始まる6日目は

必要な買い物を終える、事務仕事を終える、そしてシャバット

を迎える準備をするように、1週間をプランして日々の生活の

時間を分配して過ごして行くと、毎日が”主=YHWH” "יְהֹוָה‎”

の暦、時間表に沿って生活している事、実体感します。

シャバットを迎える準備をする事が楽しみになる。

 

意識が常に神の言葉に向いている。

対話の中にいる。アバ父がデザインした日々のリマインダーが

目にも飛び込んで来るし、また実際に衣食住全部の

インストラクション中に、神のリマインダーが物理的に

設定されているので、そのインストラクション通りに生きる時

にだけ、発見する事実があることに気がつくのです。

 

神の言われる通りに?意義ありと言えるのでしょうか。

神の言われた通りに。これが基本原則なのです。

人間は神、創造主にデザインされたので、

デザイナーのデザイン通りに生きる時にフルに”命”溢れる

生き方になるからと書かれています。

 

神はまことに賢い知恵に満ちたお方で、神のデザインされた

”人”の生き方を、神御自身がよ〜くご存知。当たり前ですが、

創造の始めから、エデンの園から神の言葉、神の暦、神の

造られた記念日は変わらないのです。

そう聖書に書いてあるのです。

月、星、太陽、天の万象は、イルミネーション、神の記念日を

司るために作られたと聖書には書いてあります。

 

そして、エデンの園の中で、始めからアダムとエバは

”神のトラー”を口頭で聞いていたのです。神のトラーの詳細

全部が書かれて渡されたのが、シナイ山での出来事=

シャヴオートの時です。

 

先入観を捨てて聖書を読んで見ると分かります。神の言葉は

神が言われたように歴史の途中で絶対に変更、変化が

ないのです。

これを、西洋宗教が”変わった”という事に、神がするなかれと

警告したにも関わらずに、神の言葉に手を加えて勝手に変えて

しまった。

つまり、神の言葉への遺伝子組み換え操作をしてしまった

のです。味も見かけも匂いも似ている。だけれど本質が違う。

いや遺伝子組み換えの食物は味がちょっと変、臭い。

それと同じ。神の言葉なのに、宗教に変身してしまう。

 

遺伝子組み換えは、神の創造されたものとは違う。人間に

取って、遺伝子組み換えを体内に取り入れたら、

体の内部を破壊する、ガンや免疫体系を破壊、又は

病気を生み出すものなのです。

 

なぜなら神の創造されたデザインに反しているから。

神の言葉以外の物を取り入れたら死ぬと言われたように、

遺伝子組み換えされた食物、又は食べてはだめと言われた

食べ物、そして神の言葉以外を食べたら、本来の”命が死ぬ”。

生き生き生きる命=ネフィッシュ ハヤと神が人を呼ばれた

その様な状態から外れてしまう。すぐにではない、でも必ず

じわじわ阻まれていく。命に陰りが出てくる。

 

最初の最初に、神は6日目までに、全ての創造をされ、

その業が完了したと書かれています。

そして、神と人と”婚姻契約”の中にちぎりが結ばれている

”印” ”証拠” ”保証の目印”として、”第七日目をシャバット”と

して祝う、そしてその記念日に”止まる”という事をする。

 

つまり、全ての業、全ての必要な事が全部備えられている

その”事実”から人が生きるように造られていることが

ちゃんと書かれています。

祝うために止まる。神が止まったから止まる。人は

神がされるように同じように生きる。

イエシュアがされたように生きる。イエシュアは第七日目

であるシャバットで止まり、地上でレビ記23章に

書かれた神の記念日の全てを祝ったのです。

その日は”意味がある”その日を人間が遺伝子組み換えして

変更してはならないと書かれています。

なんどもなんども、シャバットを汚すなかれと書かれています。

 

私は、自分の間違い、誤解、勘違いに気が付くことを

心の底から願っており、真実を日々探っています。

神の言葉に対して間違っていた理解、また誤解を知ることは

私の中では非常に大歓迎な出来事なのです。なぜならそれは、

神の本当の姿、神の真実に目が開かれる、嘘ではなく、本当の

事を知る、真実の扉神の家の奥の間に通じる扉が一つ、

また一つと開かれていく事だからです。神の言葉=イエシュア

そのものの実態に触れる事だからです。

 

自分が見聞きして来た伝統の教え=人間の教え=神の言葉に

根拠を見出せない教えに固執すれば、真実に目が塞がれた

ままになるからです。

 

色々な状態、タイプがあると思いますが、ガマリエル大先生の

ように、パウロの証言を議会で聞いた時に、正直に、”もしや

この人は真実を語っているのかも”知れないと公の場で

発言した様な態度は大絶賛に値します。使徒5:34ー39

 

使徒5:39 しかし、もし神から出たものなら、あの人たちを

滅ぼすことはできまい。まかり違えば、諸君は神を敵にまわす

ことになるかも知れない」。

 

大先生が、そのような一弟子の突拍子も無いと思われる証言に

耳を傾け、もしやこの事は”神から出ているならば”それに

反する事を言う、するならば、我々が神に対して冒涜的な

事をしている事になると言う見解をする頭脳が

ラビ ガマリエルにはあったのです。

自分の考えとは、見聞きしてきた事とは違うパウロの証言に

付いて、考えようとする態度、その態度があるという事は

いかに大事なのかという記録です。

 

人は、ある事柄に疑問を持ち始めると、考え始めます。

質問、疑問がどんどん出てくる。そして、その先はその疑問

を放置するのか、それとも真相を決定的に探るのかの違いです。

自分で根拠、証拠を調べる、探る、調査する、検証する

情報を並べてみて何が本当なのか、証拠、事実だけを基に、

考えようとし始める。これをしたならば、もう真実に

たどり着く道に入って行く状態なのです。

”求めよ、そうすれば与えられる。探し続けよそうすれば、

見つけられる。”

 

でもその時に、自分の感覚や、自分の意見、また神の言葉に

全く根拠を見つけられない人の教えや神学を土台にしては

ならないのです。

 

続く