人に目には良かれと思うことが神の目には冒涜 罪 ヤロベアム王の罪 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

もしも、トラー、預言書をきちんと元の言語の意味で学んだら、

いや翻訳通して、神の言葉は永遠普遍という土台を絶対に

ずらさずに読み続けたら。もしもトラー預言書は現代では

終わりと言う教えを基に考えることを取り除いたら、

”在りて在るお方”過去、現在、未来も変わらない創造主で

在る神、永遠普遍の神の言葉に基づく警告が”クリアー”に耳に、

頭脳に、自分の只中に直にビビビ〜〜んと響いてきます。

 

”彼らがするように<異教の神々、八百の神々を受け入れる

習わし、仕来り、感覚で>彼らの慣しを取り入れては

いけない。どうしてダメなの?少し位いいじゃない。

なんて排他的なの?

人間の基準、感覚は無用。陶器は発言権が無い。

創造の全貌を知るのは、創造主だけ。

神はどう言われるのか。それだけが”基準”なのです。

 

トラー、預言書は終わりと言う教えを取るならば、

どんな警告も頭上を通り過ぎてしまうと言うことでしょう。

なぜなら、終わった神の言葉に聞き入る意味は全くもって

無いからです。それぞれの感覚、フィーリング、自分の価値

基準、判断で選ぶ世界は、”神無し”の世界、神そっちのけと

全く同じ世界。

自分が基準、神の言葉ではなく誰かの教えが基準。人間が神。

それがヤロベアム王の罪として聖書に書かれているのです。

 

ヤロベアムの罪と言う下りで、いかにヤロベアム王が神の前

に、また人に対してとんでもない”罪”を犯したのかが、

繰り返し、繰り返し何度もずっと列王記の中に、リピートして

書かれています。それに続く、歴代史を読んでみても

分かります。

神が何を警告しているのか。何が預言書のメッセージ=

預言者に託された神の託宣は何なのか、書かれています。

 

王は、神と同じ頭脳、思索で民を保護し、守り、導き

必要の全てを供給し、神のトラーを教えなくてはならない

存在なのです。

油注ぎとは、救い主、イスラエルの王、預言者、祭司たちに

対してのみ行なわれるものである理由はそこなのです。

そのような立場にある”王”が、人を神の言葉からはぐかせる

神の言葉=トラーに聞くことを忘れさせ、自分教の教えに

耳を傾けるよう推進する。

これは、ローマ皇帝コンスタンチヌスの罪と全く重なる事件

でもあります。

 

よく読んでみると、イスラエルは”イスラエルの神”を拝んで

いるのです。シナイ山での2つの金の子牛を通してイスラエル

の神を拝んでいたことと全く同じことです。神の言われる事

ではなくて、自分たちの編み出した=異教の神々の要素を

混ぜた近づき方。その近づき方が、異教の神々、近隣国自分

たちの先祖がエジプトで学んで取得した方法、異教の神々の

要素をふんだんに取り入れて、神の言われる通りではない事

を通して、イスラエルの神を礼拝していることが問題なのです。

”あなたの動機、熱意を買いましょう”などと神は

絶対に言わないのです。

”わたしの言った仰せ通りにしなさい”と言われる。これは

クリアーではっきりしています。創世記のはじめから、

黙示録の終わりまで一貫しています。

ここは、神が作られた世界であることを人は忘れているから。

 

神が言われていることと違う方法、違う祝い日、別の場所を

選び、神に近づくことを、”姦淫の罪”と書かれています。

 

1列王記 12:31 彼はまた高き所に家を造り、レビの子孫でない

一般の民を祭司に任命した。

12:32 またヤラベアムはユダで行う祭と同じ祭を八月の十五日

定め、そして祭壇に上った。彼はベテルでそのように行い、

彼が造った子牛に犠牲をささげた。また自分の造った高き所の

祭司をベテルに立てた。

12:33 こうして彼はベテルに造った祭壇に八月の十五日に

上った。これは彼が自分で勝手に考えついた月であった

そして彼はイスラエルの人々のために祭を定め、

祭壇に上って香をたいた。

<レビ記23章の神の祭りの日=仮庵の祭りを第七の月から

第八の月に変更しています。神の目には冒涜、罪以外の何もの

でもない有難くもなんとも無い祭りで、神を祝っているのです。

 

取り違えてはいけない事は、こう言う事だと思います。

全世界の全員がエルサレムには行けない。

当然です。いやイスラエルに住んでいた当時の人達とて

全員が都上りの祭りに行けないのです。生涯の中で、

一度も神殿に入り、コバーンを捧げる体験をしない、できない

人だっていたでしょう。もちろん。

それは色々な理由があります。病気、年齢、または経済的

理由、その他諸々理由はあります。

 

だから、家族、親族の代表の男子が一人エルサレムに

上って都上りの祭りを祝った事実に目を留める。

神の家のデザインを教えているのです。

1つ神に、一つ家に、一つ大家族が、一つの目的=神の家の

記念日のために、家族が”里帰り”するような、

絵画的教えが見えてきます。一つ体、一つマインド、一つの

神の中に全ての人が修復されるモデルがちゃんと見えます。

 

イスラエルの神は、イスラエル、その家の首都はエルサレム。

ダンではない。ベテルでもない。もちろんローマでなんか

全く無い。途中でヤロベアムが神が創造されたデザインを

曲げたのです。自分教の都合、理由で。

それをしてはダメだったのです。

 

続く