コロサイの聖徒達の聖書的生き方を批判した異教徒達の信仰は コロサイ2:18 19 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

トラー=聖書的ライフスタイルを送るコロサイの聖徒達を批判、

悪評する人達は以下の様な信仰をしていた人達でした。

 

2:18 あなたがたは、わざとらしい謙そんと天使礼拝とに

おぼれている人々から、いろいろと悪評されてはならない。

彼らは幻を見たことを重んじ、肉の思いによっていたずらに

誇るだけで、

 

わざとらしい謙遜=人間の作り出した教えを修行する、

極度の断食などで体を痛めつける、又は不眠などで

体を酷使する。

その様な事を行なう事で、謙遜になると考える。

偽教師による偽の人間哲学、宗教の世界です。

 

トラーの中身を、神の意図通りに生きるなら、

この様な事にはならない。パウロがトラーを否定したり、

この世の教えとか、人間の作り出したドグマなどと、

話しているのではない事をクリアーにすれば、

論点が見えて来ます。

もし、神の言葉、インストラクション=トラーを生きる時に、

人が神の造られデザインの姿から外れるとするならば、

神のインストラクションは、この世のどこにも存在しない

事になってしまいます。

 

天使礼拝=神の言葉とは違う、別の偽宗教の偶像を拝んでいる。

そんな神の言葉=トラーの中に書かれている、神のデザイン

された本当の人間の生き様を知らない、真理を知らない

コロサイの異教徒達、ギリシャローマ人間哲学から生まれた

異端宗教思索を信じ、仕える人達から、トラー=神のデザイン

された人の姿を生きる事、神の言葉を生きる事に関して、

批評されてはならないと、パウロが、忠告、警告している。

 

彼らは幻を見た事をおもんじ=今の時代も、印、奇跡、現象、

幻が何より大事な印として、それを追い求めようとさせる

教えがあるのです。

 

詰まり、神の言葉=命のパンを求める世界ではなく、

全て自分が基準なのです。全て自分の体験、判断、考えが重視

されてしまう危険な状態。

神の言葉なんてそっちのけ。不思議体験、霊的体験、

エキセントリックな特異な高揚感、エクスタシーを追求=

人の思索が神の言葉から反れて、ぶれて行く、麻薬に、

操られる様な世界。

それらの体験の追求が、何より重要視されてしまう。

神の言葉に照らし合せなければ、一体何の霊に導かれている

のか分らないのに、そんな危ない状態を追求する人達。

 

それが、その人の信仰の偉大さのバロメーター=印などと

勘違いされてしまう場合もある。不思議な霊体験を得る事、

それが信仰のりっぱさのバロメーターの様に教え込まれたり。

そのような現象を求めて、流されて行ってしまう危険を、

パウロは警告しているのです。

 

肉の思いでいたずらに誇るだけとある通りです。

神の言葉に根付く、主の中に在って新しくされた人と

しての生き方、考え方ではない。

 

こんな祈りをしたら、こんな断食をしたら、こんな苦行、

不眠不休をしたら、奇跡が舞い降りたとか。

自分のやった事で、こんな不思議を体験したとか。

空中浮遊が出来る現象を誇っていた教祖さまと同じ世界。

 

神から何かを引き出す、頂くために、偶像に仕えるように、

自分の努力のアプローチ、アピールで、それが祈りであれ、

活動であれ、それをする事で神に、自分の思い通りの願いを

叶えてもらう事に必死になる。現象を手に入れる。

又は、不思議体験を誇示し、重んじる様に教えられる。

その不思議や体験が大きければ、大きいほど偉大だと

賞賛される。

 

それが聖書に書かれている偶像礼拝の真髄なのです。

神の言葉に根付いた落ち着いた、堅実で真実に根付いた成人

の生き方から反らされて、現象を求める様に意識を反らされる。

 

神の言われた通りに生きず、言われた方法で神と関係を結ばず、

自分の思いで、自分のやり方で、自分の作り出した法則、

考えで神に近づき、奇跡と印と、現象を追い求める、

まるで空の幻想を求めるのと同じ世界。

自分が神の御旨に入って行くのではなくて、自分の願いを

手に入れるため、神を自分のアピール、アプローチで

動かそうとする意識。只のギブアンドテークの世界。

 

そう言う奇跡体験を誇示、神の言葉に根付いてしっかり生きる

事から逸脱させる世界です。

神の言葉から逸脱した人間の教え、人間の空想を

土台とした信仰の世界を生きてしまう事への警告。

 

コロサイ2:19 

キリストなるかしらに、しっかりと着くことをしない。

このかしらから出て、からだ全体は、節と節、

筋と筋とによって強められ結び合わされ、神に育てられて

成長していくのである。

 

キリストなるかしら=ローシュ=全ての創造物の源、供給源

であるお方にしっかり着くことをしない。

頭にしっかり付くとは、神の言葉=絆でしっかり自分の意識、

思索が神中心に結ばれる事です。思索が神とピッタリに

合っているなら、神の意図する本来の正常な状態で、

主と繋がっている、

本体と影が同じ動きをする機能状態にあるのです。

主の言葉=神御自身の中に繋がれていなければ、主の実態とは

違う影を映し出す。

神にしっかり根付く、繋がれるとは、神の言葉で表されて

いる、神の子らの実態に生きる事なのです。

 

前節の様な、人の教えを生きる事、現象、不思議、奇跡を

求める様なこの世の異教徒が求める様な生き方、

信仰の様なものは、しっかりキリストに着くことが

出来ない教えであると書かれています。

 

ローシュ=キリスト=イエシュア=トラーから発生して、

体全体は、キリストの体全体は神に育てられる。

神の子とされた人は何を食べて育つのか?

神の言葉=トラーにより、養われ、支えられ、節々が

しっかりして、成長して行くと書いてあるのです。

人は神の口から出る一つ一つの言葉により生きると

40日40夜の一番極限状態で、荒野で試みを受けた時に

イエシュアがサタンの大御所に対して発言して、サタンを

退けた言葉とピッタリ同じ事が書いてあります。

 

続く