誤解されいてる言葉 影は消えてなくなる? コロサイ2:17 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

2:17 

これらは、きたるべきものの影であって、

その本体はキリストにある。

 

影=消えるもの、意味無い一時的な物と解釈されていますが、

影とは、目に見えない本体と同一の性質を表すものです。

本体があるから、影があるのです。本体と影はエハッド。

本体にピッタリくっついている。

影が消えたら本体も消えると言う事です。

本体=目で見える、影=目に見えない本体のシルエット

でも一体で同じ性質、同等の実質なのです。

本体が存在するから、影があるのです。そして本体と

影は一体です。

 

楽譜や文字と同じです。

作曲者の姿は見えないけれど、その作曲者が記した楽譜を

意図通り奏でれば、美しいメロディー、ハーモニーが

現れ出る。影を生きると言う事は、目に見えないイエシュア

の姿を地上で映し出す事、その事です。

神の栄光を表す=神の似姿の人が意図通りに生きる時、

神の実態が現れ出る。

 

イエシュアが地上に来たのはまさにそれです。

わたしを見たものは父を見た。

影と本体は一つ。同等。天の現実=本体を

地上で生きた=影。

父が動いたら動き、止まったら止まり、

語ったら語り、黙ったら黙る。本体と影はピッタリ

同じ実態で同じ行動、動きをするのです。

 

目で見えないけれど、同じ実態と言う意味が、影と言う言葉

で表されているのです。

 

 

今肉眼で見えないけれど、神が居られる、神が自分の

内側に住んでいる、自分も神の中に居る事実を、目に見えない

けれど、信じているのと同じ事です。

目で見えないから、神は居ないのと言うのは事実ではない。

 

目で見えない本体の実態=影を生きているのです。

何を生きるのか?それは、神の言葉=トラー=イエシュアの

実態、神の言葉通りを生きる事です。

目で見えない中身は同じ実態=本体と同一の影を

生きているのです。

目で見えないものを、信仰により信じていると言う事。

将来は、影に付いている本体=イエシュアを肉眼で、

顔と顔を合わせてみる。顔と顔を合わせて見た人達は、

1世紀のイスラエルに居たのでしょう。同じ事です。

 

肉眼で見ていても、神の言葉=実態を生きなければ、

実態=本体を生きていない事になる。

 

来るべき日、肉眼でイエシュアと相見えるまで、

影==イエシュアの実態=言葉を地上で生きる。

目で見えなくても、信じている。

神の実態=言葉=イエシュアを生きる。

その記念日の実態は、イエシュアそのものであるのです。

それが分れば、影=不要という教えは人間の教えである事が

分ります。ヘブライ思索では、影=不要と言う意味ではない。

 

イエシュアが再び来られたら、肉眼でイエシュアを肉眼で

見て、そして、神の記念日を祝う。ゼカリヤ14章。

本体と影がぴったり一つである事、肉体的肉眼を通して

全存在で体験する時が来るとあるからです。

 

ある翻訳には、”影にすぎない”などの聖書の中に無い言葉を

付け足されてしまっています。その様な付け足しの言葉が

補われてしまう理由は、翻訳する人の先入観、

思想があるからです。

 

トラーは終った、古い律法と堅く信じる人達が聖書を訳せば、

彼らの哲学、思想に沿って、原語を訳そうとしてしまうので、

その様な原語にはそぐわない、意味のズレた言葉を

付けたしたり、又は聖書に無い文を挿入したり、

原語に沿わない訳を、人の手を介して作り出されて

しまうのです。

彼らの考える思想、哲学に合わせた、聖書翻訳を編み出して

しまうのです。

そして、それを読んだ人が又ズレた意識を生み出してしまう

のです。そしてズレた教えを伝達し続けてしまう。

 

その様な弊害が、翻訳の中にはある事、免れない事を

認識していなければならないのです。

でも注意して読んで行けば、臭いなと思う箇所には、

何か問題が潜んでいる事が分るのです。

神学か、誤訳か、又は不適切な言葉で訳されている。

 

だから、不明な箇所は、必ず原語に忠実に戻って確認し、

聖書は、一貫している、始めから終わりまで、全て同じ事が

貫かれ、書いてある。終った神の言葉など書いてない、

互いにどこも相反する事など書かれていないと言う、大前提を

揺るがさずに読み続ければ分る。

書いてある事だけを忠実に検証し、文脈、内容から逸脱せず

にきちんと読み取り、神の言葉だけを土台にしなければ、

見えない真実が、非常に多くあるわけです。

それ以外は、只の人の意見や思想、又は神の言葉の意図を

曲げた解説になってしまうからです。

 

日本語の俳句を英語に訳しても、元の言葉やニュアンスが

見えない、分らないと言う事と同じなのです。

 

神の言葉を指して律法と言うヘブライ語自体も、始めから

ヘブライ語の中には書かれていない言葉であると言う事実

からして、律法と言う言葉は、不適切な翻訳そのもので、

その様な翻訳が訂正されない限り、誤解の意識、

人造神学を信じる信仰は変わる事はないのです。

 

又は、旧約、新約と言う神の言葉にそぐわない、

人間の手を加えたタイトルページ挿入も、少なくとも自分の

意識の中からまず取り除く。神の意図に沿う考えに起動修正

する事が必要なのです。

 

ヘブライ語聖書だけが、一点一画、文字数も、使われている

言葉も始めからずっと同じなのです。神の言葉のオリジナルが

今もそのまま保存されている奇跡の書、神の書。

改訂版も修正版もない、本当のオリジナルだけに戻れば

確証出来ます。

 

 

続く