コロサイの聖徒達、当時1世紀は殆どユダヤ人がイエシュア
信者だったのです。
トラーを生きると言う事が、聖書の中に書かれている聖徒
達の大前提であり、パウロが、トラーを捨てた別の教えを
していると言う事など、書簡を受け取った聖徒達の間で
微塵にも信じられていない。誰一人その様な西洋哲学思想に
基づいた教えなど、考えても、思い浮かべる事さえも
しない人達である事に、軌道修正して読む。
日本人が土足で家の中に入り、畳の上を靴で歩く様な事を
絶対しない、それ位、トラーを生きると言う事が大前提の
人達が1世紀のイエシュア信者達である事実に起動修正して
全てを読めば、誤解が解けて行きます。
コロサイの地の様に、異教の神の国々の中に居て、
トラー=神の言葉を日常生活で、どの様に生きれば良いのか、
パウロに対し、手紙で様々な質問し、エルサレムのトラーの
お家元、トラー スクールのセンターに送り、その回答を
パウロから手紙で受け取った記録が、この様な書簡として
残されているのです。
神の言われる意図がはっきり分ってしまえば、神の禁じて
いる事は、もう出来ない。したいとも思わない。
神がしなさいと言われる通りをする。
それが”神”を愛する事、と書いてある事です。
神を愛する人は、神の仰せを愛し、それを生きると
神が言われたから。神の言葉に通りに基づけば、神の
言葉を生きる事こそ、神を愛している印、証拠、信仰の
表れです。
神の言葉=トラーを生きる事は、神の知恵に満ちた
聖書的ライフスタイルを生きる事。
それは、神が賢い生き方だと言われた、単純な事なのです。
神が言われた通りをするのは、何も複雑な事でも難しい事
でもないのです。
神の言葉を捨てると言う、その様な考え自体が、とても冒涜、
恐ろしい事、愚かな事であり、死に値すると神が
言われたのです。その意味が分らないから、神の言葉を捨てる、
分らないから、捨て続けると言うだけなのです。
それを、コロサイの地にある、異教徒達=トラーを分らない
人に話しても、理解されないと言う事なのです。
理解されないどころか、トラーのライフスタイル、聖書的
ライフスタイルである、食べ物、飲み物、そして神の記念日
を祝う事で、悪評、批判の嵐の中に置かれて居た状況で
あった事が、コロサイ人への書簡の中に書かれているのです。
そしてトラーを知らない異教徒達からは、猛烈に批判、攻撃、
悪評もされた、又はされ続けたのです。
それがコロサイ2章の当時のコロサイの聖徒達の状況だった。
理解されない、超えられない隔たりの壁があるからです。
ルカ16章19−31
そして、大衆の大多数に支持されている生き方や、
生活スタイル、教えや、生活習慣、文化に根付いた普通の
常識や教えをしない、生きない時に、ブーイングが起こる
のも、どの時代でも避けられないものである事が
記されています。現代にも通じる、パウロを通しての
神からの知恵と励ましです。
異教の神々を信じる人達の中では、イスラエルの神の聖書的
ライフスタイルは、とても異質、奇異、変わり者に、映る
だけだからです。
それは、避けられない、仕方ない事なのです。
大衆には理解されないか、批判される。
でも神の言われる言葉の意味、意図が分ってしまったら、
神の言われた通りにする。それが神への信頼、信仰へ生きる
人達の生活態度だからです。
でも、神の言葉を生きる事を誰からも、批判、悪評
受けるべきでもない。
それが従うと訳されている、本当は=シャマー=聞くと
言うヘブライ語で表される行動なのです。
神に言われた通りを、神の言葉の下に来て、神の言葉の中に
居て、神の言葉を聞けば、神の言葉の通りに行動するから。
神の言われた通りを聞かない場合は、神の意図通りには
考えないから、神が言われた通り行動しない。
神の言われた事と違う事をするのは、神の言葉で表される
シャマーでは無いから。
神の仰せとは違う事に迎合するのは、危険だとも分るのです。
大衆に支持されている人の教えに生きるのか、それとも
神のピュアな言葉を生きるのか、命か死、どちらを選ぶか、
常に目の前に、選択肢が置かれて居るのです。
神が他の教えと同化するなかれ、他の教えと混じる事は、
すなわち神に対しての姦淫の罪であると、とても度合いの
強い、最も厳しい言葉を使ってそう人々に語られたからです。
その言葉をもって、神の言葉を捨てる、又は混ぜ物の教えを
する事が、どれほど危険な事か、神の子らに神が直接教えて
いるのです。それほどまでに言わなければ分らないから。
しかも、厳しい言葉で伝えるだけでなく、イスラエルが、
神の言葉を捨てて、別の神々の教えに同化した行った結果、
イスラエルはどうなったのかは、”預言書”に書かれています。
言っても聞かないイスラエルの民の身の上に何が起こったのか。
預言者の役割の目的は、神へ戻る、神の指定したライフ
スタイル=契約の命=トラーを生きる事へ戻れが、神からの
託宣なのです。将来の預言的な事はほんの一部の側面で
しかないのです。
実際に近隣国、アッシリアやバビロンの敵が責めて来て、
襲われた。イスラエル同士、兄弟、親族が戦う様な状況に
置かれてしまった。
約束の地であるイスラエルの国から追い出され、異教徒の
地に、捕囚の民として捕われて行って、しまった。
本当の生き方、本当の神の元に繋がれて生きる幸い、
祝福を奪われて、惨めな姿になってしまった。
トラー=契約の命に生きるなら、祝福がある。雨が降り、
作物が実り、食べ物とワイン=祝福と喜びの印で溢れる。
夫婦、家族、町ぐるみが幸福で、誰も貧しいものなど
居ない。お互いが自分勝手に富を独り占めしないで、
分け合う事、助け合う事がトラーに書かれているからです。
契約の命を生きない時には、惨めな姿になってしまうと、
神の言葉=トラーの中で、警告されているのです。
そこまでしないと、目が覚めないからです。
イスラエルが、今も同じ契約の継承者の代表者である証拠は、
契約の中に生きない時に、艱難が来る。詰まり神の与えた
契約、契約受け取り代表の立場は、神の永遠不変の言葉通り、
永遠不変だからです。
別の契約を、異邦人が今度が代表で受け取ったと言うのは、
人間の教えである事は明らかです。神の言葉に基づけば。
続く