トラーを生きる事で異教徒からの批評、悪評にひるむなかれとコロサイの聖徒達を励ましたパウロ  | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

コロサイの聖徒達、当時1世紀は殆どユダヤ人がイエシュア

信者だったのです。

トラーを生きると言う事が、聖書の中に書かれている聖徒

達の大前提であり、パウロが、トラーを捨てた別の教えを

していると言う事など、書簡を受け取った聖徒達の間で

微塵にも信じられていない。誰一人その様な西洋哲学思想に

基づいた教えなど、考えても、思い浮かべる事さえも

しない人達である事に、軌道修正して読む。

日本人が土足で家の中に入り、畳の上を靴で歩く様な事を

絶対しない、それ位、トラーを生きると言う事が大前提の

人達が1世紀のイエシュア信者達である事実に起動修正して

全てを読めば、誤解が解けて行きます。

 

コロサイの地の様に、異教の神の国々の中に居て、

トラー=神の言葉を日常生活で、どの様に生きれば良いのか、

パウロに対し、手紙で様々な質問し、エルサレムのトラーの

お家元、トラー スクールのセンターに送り、その回答を

パウロから手紙で受け取った記録が、この様な書簡として

残されているのです。

 

神の言われる意図がはっきり分ってしまえば、神の禁じて

いる事は、もう出来ない。したいとも思わない。

神がしなさいと言われる通りをする。

それが”神”を愛する事、と書いてある事です。

神を愛する人は、神の仰せを愛し、それを生きると

神が言われたから。神の言葉に通りに基づけば、神の

言葉を生きる事こそ、神を愛している印、証拠、信仰の

表れです。

 

神の言葉=トラーを生きる事は、神の知恵に満ちた

聖書的ライフスタイルを生きる事。

それは、神が賢い生き方だと言われた、単純な事なのです。

神が言われた通りをするのは、何も複雑な事でも難しい事

でもないのです。

神の言葉を捨てると言う、その様な考え自体が、とても冒涜、

恐ろしい事、愚かな事であり、死に値すると神が

言われたのです。その意味が分らないから、神の言葉を捨てる、

分らないから、捨て続けると言うだけなのです。

 

それを、コロサイの地にある、異教徒達=トラーを分らない

人に話しても、理解されないと言う事なのです。

理解されないどころか、トラーのライフスタイル、聖書的

ライフスタイルである、食べ物、飲み物、そして神の記念日

を祝う事で、悪評、批判の嵐の中に置かれて居た状況で

あった事が、コロサイ人への書簡の中に書かれているのです。

 

そしてトラーを知らない異教徒達からは、猛烈に批判、攻撃、

悪評もされた、又はされ続けたのです。

それがコロサイ2章の当時のコロサイの聖徒達の状況だった。

理解されない、超えられない隔たりの壁があるからです。

ルカ16章19−31

 

そして、大衆の大多数に支持されている生き方や、

生活スタイル、教えや、生活習慣、文化に根付いた普通の

常識や教えをしない、生きない時に、ブーイングが起こる

のも、どの時代でも避けられないものである事が

記されています。現代にも通じる、パウロを通しての

神からの知恵と励ましです。

 

異教の神々を信じる人達の中では、イスラエルの神の聖書的

ライフスタイルは、とても異質、奇異、変わり者に、映る

だけだからです。

それは、避けられない、仕方ない事なのです。

 

大衆には理解されないか、批判される。

でも神の言われる言葉の意味、意図が分ってしまったら、

神の言われた通りにする。それが神への信頼、信仰へ生きる

人達の生活態度だからです。

でも、神の言葉を生きる事を誰からも、批判、悪評

受けるべきでもない。

 

それが従うと訳されている、本当は=シャマー=聞く

言うヘブライ語で表される行動なのです。

神に言われた通りを、神の言葉の下に来て、神の言葉の中に

居て、神の言葉を聞けば、神の言葉の通りに行動するから。

神の言われた通りを聞かない場合は、神の意図通りには

考えないから、神が言われた通り行動しない。

神の言われた事と違う事をするのは、神の言葉で表される

シャマーでは無いから。

神の仰せとは違う事に迎合するのは、危険だとも分るのです。

大衆に支持されている人の教えに生きるのか、それとも

神のピュアな言葉を生きるのか、命か死、どちらを選ぶか、

常に目の前に、選択肢が置かれて居るのです。

 

神が他の教えと同化するなかれ、他の教えと混じる事は、

すなわち神に対しての姦淫の罪であると、とても度合いの

強い、最も厳しい言葉を使ってそう人々に語られたからです。

 

その言葉をもって、神の言葉を捨てる、又は混ぜ物の教えを

する事が、どれほど危険な事か、神の子らに神が直接教えて

いるのです。それほどまでに言わなければ分らないから。

 

しかも、厳しい言葉で伝えるだけでなく、イスラエルが、

神の言葉を捨てて、別の神々の教えに同化した行った結果、

イスラエルはどうなったのかは、”預言書”に書かれています。

言っても聞かないイスラエルの民の身の上に何が起こったのか。

 

預言者の役割の目的は、神へ戻る、神の指定したライフ

スタイル=契約の命=トラーを生きる事へ戻れが、神からの

託宣なのです。将来の預言的な事はほんの一部の側面で

しかないのです。

 

実際に近隣国、アッシリアやバビロンの敵が責めて来て、

襲われた。イスラエル同士、兄弟、親族が戦う様な状況に

置かれてしまった。

約束の地であるイスラエルの国から追い出され、異教徒の

地に、捕囚の民として捕われて行って、しまった。

本当の生き方、本当の神の元に繋がれて生きる幸い、

祝福を奪われて、惨めな姿になってしまった。

 

トラー=契約の命に生きるなら、祝福がある。雨が降り、

作物が実り、食べ物とワイン=祝福と喜びの印で溢れる。

夫婦、家族、町ぐるみが幸福で、誰も貧しいものなど

居ない。お互いが自分勝手に富を独り占めしないで、

分け合う事、助け合う事がトラーに書かれているからです。

契約の命を生きない時には、惨めな姿になってしまうと、

神の言葉=トラーの中で、警告されているのです。

 

そこまでしないと、目が覚めないからです。

イスラエルが、今も同じ契約の継承者の代表者である証拠は、

契約の中に生きない時に、艱難が来る。詰まり神の与えた

契約、契約受け取り代表の立場は、神の永遠不変の言葉通り、

永遠不変だからです。

別の契約を、異邦人が今度が代表で受け取ったと言うのは、

人間の教えである事は明らかです。神の言葉に基づけば。

 

続く