日本人が普通にする事を、イエスさまを信じる事で、
今はもうしないとしたら、日本人からは
批判の対象になるので、2章16節が理解出来ると思います。
付き合い悪いとか、窮屈そうとか。
葬式に出たら、数珠を片手に一緒に念仏、お経を唱えましょう
みたいな事を言われるけど、どう対応しようか考えますよね。
その場の雰囲気を壊す様な、無礼な態度は取りたく無いし、
愛の無い生き方しているなどとの、誤解も招きたくない。
日本人なのになんで、お正月の初詣や、仏壇を家に
置かないの?
先祖をないがしろにしているの?拝まないの?と、言われて
しまう事と同じです。話そうにも、説明しようにも、
同じベースに立つ相互理解が無いので、話したとしても
多分根本は理解されない。
もっと踏み込んで考えて行くと分ると思います。
イスラエルの神を信じたら、どうして、他の神を拝む様な
事をしないのか、信じた人なら分るでしょう。
神がそう言われる言葉通りを、見る事が出来る目が
開かれたからです。神では無いものなのに、
何でもかんでも、拝めない。
神社仏閣、名所旧跡の場所に行ったとしても、他の神など
崇めない、拝めないと書いてあるから。そんな事したくない。
例え、偶像の前に立たされたとしても、内心はそんな偶像に
祈ったり、拝んだりはしないでしょう。
人が造った建築物が置いてあると言う程度の認識をするだけ。
人の手で造られたもの、それがイコール神ではないから。
神が言われる事が分ってしまったからです。
神の目には、何がトーヴ=神の意図通りで、
何がラー=神の意図から外れているかが、分ってしまった
からです。
それと、同じ事なのです。トラーが終ったと言う、西洋教父
達が作り出した神学や、その教えを継承したローマ皇帝の
神学や、人の教えを通して、ジーザスを信じれば、
トラーは今の時代はもう無効だと疑いもせずに
そう信じられてしまう。
しかし、神の言葉=聖書だけにもどり、ヘブライ語の
オリジナル原語で書かれた、オリジナルの神の言葉の
真実だけを土台に検証し始め、神の言葉の中に書かれている
内容を、書いてある意図通り、曲げずに学んでみれば、
トラーが、永遠不変の神の口から直接語られた言葉だと、
はっきり書いてある。翻訳でもそう書いてあるのです。
そして、トラー=言葉=神御自身=イエシュア御自身だと
書いてある。
どうしてそんな仰せが書いてあるのか、その意味、奥義が
はっきりクリアーに分ってしまったら、神の仰せに反する事
を敢えてする事が出来なくなってしまうのです。
又はそれを生きよと言われる事をしない、神の言葉を
無視する、捨てるのは愚かと書いてある。
それは、普通に考える場合は、理解出来る事だと思います。
そして、神が言われる禁止事項をする事は、神の目に、
どれだけ神の子の姿である自分を、汚す事、損なう事だと
分ってしまえば出来ないからしないのです。
本当に分れば出来ない。神が言われた事を素直に聞く意識
態度があれば、シンプルに受け取る事が出来ます。
コロサイの人達には、トラーの理解があったのですから、
パウロが諭したら分ったはずです。
回りの教え=異教の神々に仕える人達の教えに同化、
迎合するなかれと言う意味が、理解出来た。
異教の神々の教えを生きる人々から、イスラエルの神の、
異教徒達に取っては、特異に映る生き様をしていることで、
批判、悪評されてもひるむなかれと、パウロから、
再確認され、そして励まされたのです。
なぜ別の教えと、神の言葉を混ぜたら駄目なのか、
はっきり、一目瞭然です。
本当は何か?が、別の教えと混ぜたら、その教えを聞く
人達が、元が何か、真実が何か分らなくなってしまう
からです。嘘=人間の教えと、本当=神の言葉の真実の
見分けがつかなくなってしまうからです。
これは、二種類の種=大麦、小麦の種を混ぜて同じ畑に
蒔いてはならない。 別の種の動物を交尾させては
ならない。麻とウールを混ぜた織物をしてはならないの
教えに繋がっているのです。
神の言葉は、人間の言葉とは異なるのです。
神がうっかり語って、後で取り消す言葉など絶対に無いのです。
神の口から語られた言葉は全て完璧、純粋、欠けが無い
と書いてある通りだからです。
神の言葉=神の口から出た言葉=神の実態、永遠不変の
神御自身なのです。これが、異教徒の世界の教えの中に
育った人々には、ピンと来ない意識でもあるのです。
神が代々に渡り永遠にしなさいと言われた事を捨てる事は、
神の祝福、恵みをどぶに捨てる様な行為と分れば、
その様な事は決して出来ない事が分る。
又、神が禁止される事を敢えてするのは、全く愚かと分る。
神の言葉は神御自身。神がしなさいと言う事を無視して
捨てたら、イエシュアの手を足を頭を切り取る行為と同じ。
人の批判にあおられて、神の言葉を捨てる様な
愚かな事は出来ないという事です。
又は神の仰せをすると言う生き方を選択するのが、
神の前にトーヴである、知恵に満ちた生き方である事が
分るからです。箴言も詩篇もまさに神のトラー=知恵に
生きる指針が書いてある宝庫です。もし、トラーが終わりな
ら、詩篇も箴言もそしてイエシュアの教えも終わり、
それこそ神の言葉は全部破棄されたの世界です。
神の言葉は命を生み出すもの、神の似姿の人をすこやかに
保つためのもの。神の栄光が、神のデザイン=言葉を生きる
人達を通して、神の実態が現れ出る。地の塩、世の光の役割を
担っているのです。神の似姿の人通りを生きる事が出来る指針。
以前は、神の言葉を知らなかった、神の言葉の三分の2は、
2000年以降終ったものだと教えられて、削除するものだと
思わされていたから知る術もありませんでした。
だから、本当に学んだ事も、教えられた事も無い。
自分流の理解をもとに、只只字面を読んでいただけでした。
これこそ、神の言葉に、人間の教えを混ぜて、
何が本当か分らなくなった良い例です。目の前に、神の御口
から直接出た言葉で、神の言葉は永遠不変、一点一画も、
取り除くな、付け足すなと書かれている。
トラーを捨てる様に教えれば、天の国で一番小さい軽い
存在になると書いてあっても、神の言葉通りに、その頭脳は
もう神の言葉通りを読み取る事が出来ない。本当の事が
書いてあっても何が本当なのか、人の教えの色眼鏡が妨害して
読み取れない。
目の前に永遠不変、一点一画も取り除くなかれ、
付け足すなかれと書いてあるのに、書いてあっても
読み取れない。
混ぜ物の教えを聞き続けて造られる脳回路から生まれる
先入観とは恐ろしいものです。
人を神の言葉とは異なる世界へ、導いて行ってしまう。
続く