コロサイ2:16 だから、あなたがたは、食物と飲み物とにつき、
あるいは祭や新月や安息日などについて、だれにも批評
されてはならない。
シャバットと、神の記念日である、過ぎ越や仮庵を祝って
居ますと人が知れば、なんでそんな祝い事するの?
呪い、縛りの神の記念日???はもう終った教えでしょう?
律法に戻るの?と言われる事があるでしょう。
2000年以降は、日曜礼拝に、クリスマスとイースターに
変更になったのが新しい契約の教えでしょう?と。
<聖書の事実では無いです。神の記念日は神の口から
語られたレビ記23章に書いてある事は永遠不変です。>
神の記念日が呪い、縛り、律法、窮屈なものだと
教えられて、その教えを信じているから。
神の言葉ではない、只の人の教え。
新しい教え=新しい神の記念日は、実は人間が後から
作り出した儀式や記念日です。神の記念日とは、
立場も、カテゴリーも違うものなのです。
国や文化、宗教の人間が造った記念日と、
神がデザインしたイスラエルの神の記念日とは
同等に混ぜて考える性質のものではないのです。
だから、人間の作り出した記念日は、レビ記23章には記述
されていない。福音書から黙示録までの中にも、新しい
記念日が作り出された事も、それを祝っている事も書かれて
いないのです。神の言葉の事実だけを根拠に検証する以外は
人の空想話、又は人の意見になるだけなのです。
イエシュア昇天以降も、聖書の記述の中に、誰もレビ記23章
以外の記念日を祝った形跡も書かれていないのです。
4世紀に、新しい記念日がローマ皇帝の手により
作り出される、国指定の記念日という勅令を出すまで、
誰も現代の様なレビ記23章の中に無い記念日を祝ってなど
居なかった事実があるのです。事実だけに基づき検証する。
神の造った記念日が律法で、人間の造った記念日を祝う事は
律法ではないと言う教えは一体聖書のどこに書いてあるの
でしょう?実際には、無いのです。あるとするなら、
全く誤解した読み込みをしているだけなのです。
トラーに書かれていない神の仰せは、福音書以降には、
書かれていないからです。書かれている様に思う所は、
その箇所に書かれている論点を、誤解して読んでいると
言う理由からです。
神の記念日に、日にち変更や、内容変更、別の記念日が
後から付け足されたり、レビ記23章の記念日に有効期限が
あるなどと、どこにも書いておらず、神の記念日は、
代々に永遠に祝いなさいと、神の御口から直接語られた言葉
で書いてあります。神の言われる事を取るか、人の教えを
取るかの選択が、人には与えられているのです。
あなたは、命=神の命に生きる事を選びなさいと神が
言われた言葉を信じるのか信じないのかです。自由選択。
しかも、シャバットや祭りは楽しくて、待ち遠しくて
仕方ない事なのです。縛り、呪いの記念日なのだと言う
人の言う所のもの、その意識とは、天と地の差がある。
それは、実際に神の記念日を祝った事が無い人達が発言して
いる事なのです。祝った事無いのなら、分らないはずです。
食べた事無い食べものなのに、まずそうと言えても、
まずいとは断定して言う事は出来ない。
その食べ物の味を体験して居ないのに、想像でその食べ物の
味や食感を表現しているのと同じ事です。
日本人だって、宴会や正月や祭り事は、楽しいはずです。
神の記念日は、神の知恵を駆使してデザインされ、
細部に渡り欠けがない完璧に造られた日なのです。
”この日は主が造られた”とのこの日とは、神の記念日を
指して語られて居るのです。
そして、神の記念日は、喜び、楽しみがテーマ。
神がどんなに良いお方であるのか、記念日の喜び、楽しみを、
皆で体験する事を通して知ると書いてあるからです。
何でもかんでもしない、何でもかんでも食べない、
今でも、異教の国々の人々の生活習慣とは、異なる、
違う事を、2000年以降の異邦人イエシュア信者として
すれば、神の言葉、仰せを生きて居るのに、奇異な行動を
していると、受け取られてしまうのがおちです。
それが、コロサイの聖徒達が受けていた批判なのです。
トラーの内容を知らない人達には、理解されない生き方
だからです。
何故それをするのか、又はしないのかのその中核になる
内容を、神の言葉に基づいて知られていないため、
理解されないからです。
同じベースに立って、神の言葉の真実の中でのみの、
相互理解が無いからです。
2000年以降は、トラーが無くなったので、何でもしても良い、
何でも感謝して食べる事が、神の前に、神の意図だ、良い事と
だと言われてしまう。
いや、分らなくても、神が禁止した食べもの、神が造った
人間の食べ物に付いて、調べるだけで、見えて来ます。
神は人の生きる領域での全てにインストラクションを与えて
下さっているのです。しかも、食べると言う事は、命を
保護する、繋ぐ基本中の基本。エデンの園の忠告に意識を
向ければ理解出来ます。
そして、霊的な深〜い意味、神の宮である人の姿がそこに
書かれているのです。そして、”新しくされた人”の生き様。
神の宮の中で、何故人が食せないタメーな動物が捧げられ
ない事が書かれているのか分れば、分って来ます。
イエシュアが再び来られた後も食に関しての神の規定も
変わりない。第三神殿でレビ記に記載されている、
ノアの箱船に入った7つがいのタホーな動物だけが
神の家の中で捧げられる。2つがいのタメーな動物は
神殿で捧げられない、人も食せない。
同じイエシュアを信じているのに、神の言葉だけに戻り、
本当の聖書的ライフスタイルを送ろうとすれば、
世間一般大衆の神学や、慣しの、神の前にこれこれこの日に、
どこどこに行って、何何しない人は神を愛してない人、冒涜、
失礼な人とか、決めつけられてしまう。聖書の神の仰せでも
何でもない事なのに、そう言われてしまう。
直接そう言われた事もあります。
人には、神の言葉に基づいたイエシュアがされて居た通りの
生き方をする自由選択があるはずなのに、固定概念の型に、
はめられてしまう。
神の言葉に基づいての話し合いではなく、完全に、
慣れ親しんだ異教の国々の中に生きる伝統、風習、慣し、
人の言い伝えの教えを元に語られてしまう。
果は、感情に訴えるやり方でアプローチされる。
もうこれでは、神が何を言っているのか、追求する世界では
無くなるのです。
全く別の世界での、全然意味の無い、神の言葉の真実追求
とは異なる、外れた世界での、堂々巡りです。
聖書のライフスタイルなのに、神の言葉だけに基づいて
考える事をして来なかった場合、人の作り出した
ライフスタイルが神の仰せだと思い込んでしまっている。
いや、信じた最初からそう教えられたらそうだと思い
信じるのは当然の事なのです。
続く