もし、トラーがイエシュア昇天以降消え去ったという教えを
元にするなら、罪の定義する基準が全部消えたと言う事を
意味します。全ての罪を定義するものは、トラーのみだから。
それ故罪が無いなら、神の救い、恵み、憐れみも必要なく
なると言う事になります。
イエシュア=神の言葉=トラーが肉体を取って、
地上にまで来られた方なのです。永遠の中からある、救い、
購い、神の造られ人がどの様に生きるのか?を、人が
理解出来ないから、地上で肉眼で見える形でそれを
再現して下さったのがイエシュアの生涯、そして、
木に架けられた事実で、人には、購い、救いの完了の業、
新しい人が、永遠から取戻されている事実を、
目に見える、根拠まで見せて下さったのです。
罪を定義するものが破棄されて、今や罪を断定する基準が
無くなったのならば、全ては恵みで自由に許されていると
するなら、以降は、トラーを参考程度にして、
それぞれの人の判断で何をやっても良い、何も罪ではないと
言う教えが出てくるのです。全ては自分の意見、賛成、反対、
自分の感覚、悟り、フィーリングにフィットするか
しないかの自分が全ての判定基準で、神の言葉に同意する、
又は神の言葉のある部分を人間が却下すると言う、
人間の基準による判定、判断に任されていると言う教えです。
罪を定義する基準=神のトラーが、今は無いと言う神学は、
そう言う事を意味していることなのです。
それゆえ、罪の許しも無くなるのです。罪が無いから、
罪の許しも、恵みも無用、不要と言う事です。
もし、救い主が地上に来た以降、10の言葉=神のトラーを、
破棄し、終らせたとするなら、
全く神の言葉は矛盾だらけになります。
ローマ3:23は、イエシュア昇天以降書かれました。
2000年以降の人にはトラーは無効であるなら、
全ての人は罪=ズレた=トラーから逸脱し、
トラーに反撃、違反したのでと書いてある言葉も
矛盾しています。歴史のある時点からトラーが無効と言う
教えに照らし合せれば、それは矛盾するからです。
パウロがトラーのみ信じ、教え、語り、生きて居ることも
真実ではないと言う事になり、それは又、聖書の記述に
全く相反しています。使徒21、23。
もし罪=ハター=的外れ=トラー外れの、トラーが
無くなったら、購いも、救いも今の時代は必要は無いのです。
それこそ、トラーが終れば、2000年以降の人には、
罪は在りませんとなります。終わりの時の、大審判も無くなる。
イエシュアが来られたら、再び全世界がトラーを生きる様に
なる、シャバット、神の記念日、仮庵=神の祭りを、
全世界の皆が祝うようになると言う神の言葉も、全く矛盾
してしまうのです。
聖書の記述と、どんどんどんどんずれた事になってしまいます。
コロサイ2:14節にある証書=ドグマが神のトラーでは
無い事、有り得ない事は、事実から、文脈からも明らかです。
しかも、トラーが与えられた目的は、私達のトーヴ
すこやかに命がたもたれるためだから。
トラーが無くなったら、私達の命は、トーヴの状態を
保てなくなり、すこやかな欠けの無い状態で神の与えた、
まことの命を保てないと言う事になるのです。
神の言葉の事実だけを元に考えたら、人間の教えの矛盾が、
上澄みの様に、水面に目に見える形で浮き上がり、
神の言葉を混ぜものの教えで、濁している、人が勝手に神の
言われた言葉に手を加えて破壊している事が明らかに
見えて来ます。意見ではなく、事実だけを元に検証する事は
必須、第一条件です。
箴言 30:5神の言葉はみな真実である、
神は彼に寄り頼む者の盾である。
ヘブライ語では、次の様に書かれています。
神の語られた全ての言葉は、純粋=精製されている、
不純物がない、神に信頼し神の言葉を取る者に
取って、マゲン=防御=<身を守る、保護するもの>で
ある。
生きづらく感じる、教えが難解になるのは、人が神の言葉に
手を加えて、宗教の教えに変身させてしまうからです。
神の言葉=人の命を守る事、その神の言葉を人が手を加え、
添加物、混ぜ物の教えを加えて変形すれば、神の意図とは
全くズレた宗教の教えになり、それが、掟リストをこなすが
如くの律法主義的生き方を生み、人を縛り付けてしまうのです。
神への近づき方も、自分の編み出した方法なので、苦しくなる。
現代も同じです。これは、又別の記事に書きますが、
なるほどそう言う事だったのか納得出来ます。
そしてもう一つの生きづらい理由は、死んだ自分で生きて
来た、トーヴ=神の意図通りの健全な状態を経験するべき所
を、ラー=神の意図通りの健やかなデザインとは異なる
状態を、体験してしまった過去の痛み、ひずみの記憶です。
詰まり、分厚い包皮です。脳回路の枝。神の目から見る事が
出来ない脳回路の枝です。ズレた思索、頭脳。
これが、今の自分=神の似姿の自分を生きる事を妨害している
包皮です。本当の自分が覆われてしまい、本当の自分の
エッセンス=神の似姿のエッセンスを生きる事を阻まれて
しまっている。
神の意図通りの、嘆き、修復、解決の道を辿ら無いまま、
死んだ自分で生き続けてしまう事。
だから、イエシュア=命の門=道=神の言葉=トラーの
中に書かれた通りの神の方法で、修正、修復出来ると書いて
あるのです。神の方法=トラーに書かれた事の中のみでが
神のデザイン=The 道。自分のやり方でやるから分らなく
なるのです。
主と共に死んだ以前の自分の体験の記憶が、自分の思索を
妨害し、覆うので、神の完了の業、神の宣言を信じず、
自分は所詮駄目な人間、罪人と言う、本当は主が死に
伏して下った偽自己像を信じ続けるので、脳回路に神の言葉
の真実とは違う偽情報をインプットし続ける。
相乗効果抜群です。これが聖書に書いてある二心=
命の木と知識の木、別々の領域から見る別の目=頭脳。
死んだ人、新しい人、悪い地、良い地の頭脳、神の目から
見ない頭脳の人は、切り替えが無いままなので、神から
何か受け取る事が出来ないと書かれている事です。
神の目から見る世界は、人間の肉の目が納得する世界とは
全く別の領域の世界だからです。
神の言葉を受け取らないから、種は良い地に根付かない。
根が生えなければ、枝も出ず、実もならない。
何か受け取る事が出来ないとは、そう言う事を意味して
いるのでしょう。
神が与えないのではなくて、受け取りようがないと言う事。
神の言葉とは違う事を言い続けると言う事、偽の自己像を
自分に唱え続けるとは、種を植えた後に、種を掘り起こして
妨害する行為。これでは、いつまでもスタート地点の
根が張らない。
詰まり神の言う事を、言われた意図通りに受け取る、聞く
事をしなければ、神のされようとする事を妨害してしまう。
アブラハムの例え話と同じです。今トラーを信じないなら
どんな事しても、信じさせる事など出来ませんとあります。
ルカ6:19−31
続く