人を不自由に縛り付けるのは神の言葉ではなくて人の教え | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

もし、トラーがイエシュア昇天以降消え去ったという教えを

元にするなら、罪の定義する基準が全部消えたと言う事を

意味します。全ての罪を定義するものは、トラーのみだから。

 

それ故罪が無いなら、神の救い、恵み、憐れみも必要なく

なると言う事になります。

 

イエシュア=神の言葉=トラーが肉体を取って、

地上にまで来られた方なのです。永遠の中からある、救い、

購い、神の造られ人がどの様に生きるのか?を、人が

理解出来ないから、地上で肉眼で見える形でそれを

再現して下さったのがイエシュアの生涯、そして、

木に架けられた事実で、人には、購い、救いの完了の業、

新しい人が、永遠から取戻されている事実を、

目に見える、根拠まで見せて下さったのです。

 

罪を定義するものが破棄されて、今や罪を断定する基準が

無くなったのならば、全ては恵みで自由に許されていると

するなら、以降は、トラーを参考程度にして、

それぞれの人の判断で何をやっても良い、何も罪ではないと

言う教えが出てくるのです。全ては自分の意見、賛成、反対、

自分の感覚、悟り、フィーリングにフィットするか

しないかの自分が全ての判定基準で、神の言葉に同意する、

又は神の言葉のある部分を人間が却下すると言う、

人間の基準による判定、判断に任されていると言う教えです。

 

罪を定義する基準=神のトラーが、今は無いと言う神学は、

そう言う事を意味していることなのです。

 

それゆえ、罪の許しも無くなるのです。罪が無いから、

罪の許しも、恵みも無用、不要と言う事です。

もし、救い主が地上に来た以降、10の言葉=神のトラーを、

破棄し、終らせたとするなら、

全く神の言葉は矛盾だらけになります。

 

ローマ3:23は、イエシュア昇天以降書かれました。

2000年以降の人にはトラーは無効であるなら、

全ての人は罪=ズレた=トラーから逸脱し、

トラーに反撃、違反したのでと書いてある言葉も

矛盾しています。歴史のある時点からトラーが無効と言う

教えに照らし合せれば、それは矛盾するからです。

パウロがトラーのみ信じ、教え、語り、生きて居ることも

真実ではないと言う事になり、それは又、聖書の記述に

全く相反しています。使徒21、23。

 

もし罪=ハター=的外れ=トラー外れの、トラーが

無くなったら、購いも、救いも今の時代は必要は無いのです。

 

それこそ、トラーが終れば、2000年以降の人には、

罪は在りませんとなります。終わりの時の、大審判も無くなる。

イエシュアが来られたら、再び全世界がトラーを生きる様に

なる、シャバット、神の記念日、仮庵=神の祭りを、

全世界の皆が祝うようになると言う神の言葉も、全く矛盾

してしまうのです。

聖書の記述と、どんどんどんどんずれた事になってしまいます。

 

コロサイ2:14節にある証書=ドグマが神のトラーでは

無い事、有り得ない事は、事実から、文脈からも明らかです。

しかも、トラーが与えられた目的は、私達のトーヴ

すこやかに命がたもたれるためだから。

 

トラーが無くなったら、私達の命は、トーヴの状態を

保てなくなり、すこやかな欠けの無い状態で神の与えた、

まことの命を保てないと言う事になるのです。

 

神の言葉の事実だけを元に考えたら、人間の教えの矛盾が、

上澄みの様に、水面に目に見える形で浮き上がり、

神の言葉を混ぜものの教えで、濁している、人が勝手に神の

言われた言葉に手を加えて破壊している事が明らかに

見えて来ます。意見ではなく、事実だけを元に検証する事は

必須、第一条件です。

 

箴言 30:5神の言葉はみな真実である、

神は彼に寄り頼む者の盾である。

 

ヘブライ語では、次の様に書かれています。

神の語られた全ての言葉は、純粋=精製されている、

不純物がない、神に信頼し神の言葉を取る者に

取って、マゲン=防御=<身を守る、保護するもの>

ある。

 

生きづらく感じる、教えが難解になるのは、人が神の言葉に

手を加えて、宗教の教えに変身させてしまうからです。

 

神の言葉=人の命を守る事、その神の言葉を人が手を加え、

添加物、混ぜ物の教えを加えて変形すれば、神の意図とは

全くズレた宗教の教えになり、それが、掟リストをこなすが

如くの律法主義的生き方を生み、人を縛り付けてしまうのです。

神への近づき方も、自分の編み出した方法なので、苦しくなる。

現代も同じです。これは、又別の記事に書きますが、

なるほどそう言う事だったのか納得出来ます。

 

そしてもう一つの生きづらい理由は、死んだ自分で生きて

来た、トーヴ=神の意図通りの健全な状態を経験するべき所

を、ラー=神の意図通りの健やかなデザインとは異なる

状態を、体験してしまった過去の痛み、ひずみの記憶です。

詰まり、分厚い包皮です。脳回路の枝。神の目から見る事が

出来ない脳回路の枝です。ズレた思索、頭脳。

 

これが、今の自分=神の似姿の自分を生きる事を妨害している

包皮です。本当の自分が覆われてしまい、本当の自分の

エッセンス=神の似姿のエッセンスを生きる事を阻まれて

しまっている。

神の意図通りの、嘆き、修復、解決の道を辿ら無いまま、

死んだ自分で生き続けてしまう事。

だから、イエシュア=命の門=道=神の言葉=トラーの

中に書かれた通りの神の方法で、修正、修復出来ると書いて

あるのです。神の方法=トラーに書かれた事の中のみでが

神のデザイン=The 道。自分のやり方でやるから分らなく

なるのです。

 

主と共に死んだ以前の自分の体験の記憶が、自分の思索を

妨害し、覆うので、神の完了の業、神の宣言を信じず、

自分は所詮駄目な人間、罪人と言う、本当は主が死に

伏して下った偽自己像を信じ続けるので、脳回路に神の言葉

の真実とは違う偽情報をインプットし続ける。

 

相乗効果抜群です。これが聖書に書いてある二心=

命の木と知識の木、別々の領域から見る別の目=頭脳。

死んだ人、新しい人、悪い地、良い地の頭脳、神の目から

見ない頭脳の人は、切り替えが無いままなので、神から

何か受け取る事が出来ないと書かれている事です。

神の目から見る世界は、人間の肉の目が納得する世界とは

全く別の領域の世界だからです。

 

神の言葉を受け取らないから、種は良い地に根付かない。

根が生えなければ、枝も出ず、実もならない。

何か受け取る事が出来ないとは、そう言う事を意味して

いるのでしょう。

神が与えないのではなくて、受け取りようがないと言う事。

神の言葉とは違う事を言い続けると言う事、偽の自己像を

自分に唱え続けるとは、種を植えた後に、種を掘り起こして

妨害する行為。これでは、いつまでもスタート地点の

根が張らない。

 

詰まり神の言う事を、言われた意図通りに受け取る、聞く

事をしなければ、神のされようとする事を妨害してしまう。

アブラハムの例え話と同じです。今トラーを信じないなら

どんな事しても、信じさせる事など出来ませんとあります。

ルカ6:19−31

 

 

続く