罪の定義は、イエスさまだ〜、新しい別の契約、異邦人に
与えられたものは、福音書以降に書いてあると
思ってましたが、事実を知れば、イエスさまの語られた
内容100%トラー。トラーを一点一画も捨てていない、
漏れなくすべて100%トラーのみ、何も神の言葉を否定
してなどいない、削除もしていない、
しかもイエシュアの御口から、トラーの一点一画も削除、
付け足しするなかれと、厳重警告されたのです。
一点一画も漏れなく100%丸ごと、トラーの真実をそのもの、
丸ごとトラーだけをイエシュア語っている事実が
書いてあるのです。
トラーを知ると、イエシュアの語られた全ての教えが、
丸ごと、申命記であったり、レビ記であったり、
トラー丸ごとである事が分ります。
わたしを知りたいなら、”トラー”預言書を読みなさい、
知りなさい、わたしがまるごと書いてあると、
イエシュアが言われたのです。
イズム〜教とは、神の言葉に人間の教えを付け足すものを
指して言いますが、イエシュアの居られた1世紀当時の
ラビ達の教えがどうして、イエシュアに退けられ、
矯正されたのか?神の言葉に、厳しい人の教えを盛り込んで
変形させた神の意図と外れた息<生き>苦しい教えを、
人々が生きる様に、強要していたからです。
現代も同じ様な事が起こっています。
真理は人を自由にする。人の作り出した教え=ドグマ=
神の真理ではない教えの全ては、人を縛る、不自由にすると
ある通りです。
気がつかないまま、人の教え、人の唱えるスローガンを、
神からの仰せだと信じ込み、それを生きて窮屈になっている
事がたくさんあるのです。誰かの作り出した教えを、
神からの託宣だと言われて、聖書に何の根拠も無いのに、
誤解した読み込みから教えられた事を信じ込んだら、
その人の語る所の神?の仰せ、考えに背いたら、
神に背いていると思ってしまう。完全に束縛です。
しかも、リーダーは神の権限を頂いているのであるから、
質問したり、意見言ったりしてはならないと教えられて
しまったら、それこそ人の奴隷になっている事にも気が
つけない。<これは、現代のラビの世界にもある事です。
どの世界にも存在する。人が神の権威の上に立つ。
人が、人を支配すると言う図式。
又別の記事に書いてみたい内容です。>
だから、神の言葉だけに、戻る、神の言葉を知る必要が
あるのです。人の命が守られるため。
イエシュアが語られたのは、創世記、出エジプト、レビ記、
民数記、申命記、その解説の預言書、諸書だけです。
イエシュア=ハ トラー=ザ トラー=文字で書かれた
トラーが肉体を取って来られとヨハネも書いている
通りなのです。
しかも、イエシュア御自身が、わたしが、トラー、預言書で
あると宣言しているのです。
だから、イエシュアを救い主と認識出来なかった当時の人々
が、トラー、預言書=救い主であるとイエシュアが宣言した事で、
自分を神とする冒涜だ〜と、激憤、怒り爆発したのです。
1ヨハネ3:4にも、罪の定義が書いてあります。
トラーに書いてある事ですが、神のトラーを違反する事、
反逆する事、はず事を、罪=ズレ=ハターだと、
ヘブライ原語聖書では書いてあるのです。
アーチェリー用語もこれと同じ言葉です。
的を射る事をトラーと言います。
的を外す事を、ハター=的=トラー外れと言うのです。
ヘブライ聖書での罪とは、トラーに違反、反逆、逆らう行為
と書いてあるのです。しかもこんな事が罪?と、異教の国の
教えの中育ちには分らない事が、トラーを知れば、実は神の
目から罪である事が書かれています。
神の言われる言葉=定義を元に起動修正すれば、何が聖書に
書かれているのか見えて来ます。
トラー以外の罪の定義など神の造られた世界には
存在しないからです。
古い、新しいと言う二つの契約はないのです。
それは、人の作り出した神話、都市伝説です。
人間の契約書でも、勝手に自由に書き込んだり、
削除しないものです。
しかも、別の契約書なるものは、この世に文書としても、
神の教えとしても存在もしていない事実があるのです。
一つの契約、全人類に与えられたものなのです。
一つの神、一つの家族。人種は違えど、唯一の親しか
居ないのです。そして同じ親に造られた同じ人間。
それは、ノア、アブラハム全ての契約を網羅するものでも
あるのです。神のデザインされた人間の生きる全てが
書かれているものです。進化論を信じる人なら別ですが、
神には移り行く影も、変化もない。
永遠から永遠に変わらないと神が言われているのです。
神=言葉、同じ一体、ぴったりぶれないマッチしている、
エハッドの真実なのです。
もし、神のトラーが無くなるとするなら、そこにはトラーに
対する”違反”、詰まり”罪”の定義は存在し無くなり、
もう罪も無くなると言う事を意味してしまうのです。
だから、トラーは終ったと言う神学を信じるなら、
その神学を土台にして、未だに罪が存在するとか、
罪人なんて言う教えも矛盾した教えなのです。
<人は罪人ではなく、神の似姿に造られたと書いてあります。
人間の本当の性質は、神の定義する言葉のみを土台にする。>
何でもありの世界が許された事になるからです。
トラーが消えたら、神の提示する罪の基準は
消えたと言う定義だからです。
罪人と言う神学を信じるなら、その罪の定義は、
何に基づいているのか?と言う事実に
気がついてみると見えて来ます。
罪の定義はどこに書いてある?その書はどこにあるのか?と。
人の生きる全ての領域に関して、もれなく書かれていなけ
れば、それは”罪”の定義とはならないのです。
福音書以降だけが、新しい契約であるとするなら、
ある部分に関しては、全く罪の定義が存在しないと
言う事になります。
神の存在しない領域があると言う事と同じです。
福音書から黙示録までは、トラーのダイジェスト版です。
だから、聖書の三分の1の量しか占めていないのです。
人の生きる全ての領域に関してのインストラクション
が全部書かれていません。部分的です。
そうすると、罪の定義も限られている事が分るのです。
もし罪=ハター=的外れ=トラー外れの、トラーが
無くなったら、購いも、救いも必要は無いのです。
それこそ、2000年以降の人には、罪は在りませんと
なります。
イエシュアが木に架けられた意味も無くなるのです。
特に2000年以降の人々には。
続く