人の教えを着せた重たくて窮屈で苦しい教えではない 真実の神の言葉の真相は? | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

日本での一年の仕事終わりと、学業の終わりは3月末ですが、

海外では、6月、夏で終わりと言う国が多いです。

6月仕事納め、1年の学業納め、卒業式があるのです。

今は、一年で一番忙しい占めの時期です。

 

そして、再びたくさんの別れを経験する時期でもあります。

多くの友人の引っ越し、移動、進学先への移動などなど。

お別れが満載の時期で、お別れ会続きで、

泣き通しと言う人も居ます。

 

人は、永遠の中に一体として造られた事実、性質

要素がある。離れると言う体験をする様には、

造られていなかった事が分ります。

だから、別れはどの様な形でも悲しいものです。

そして、一番親密な家族が分かれると言う事が、

何よりも最大の悲しみでもあるのでしょう。

これがある日突然来る事もあるのです。

 

今と言う時を、神の与えて下さった命をフルに生きたい。

別れが来ると、あの時もっとあの様にして上げたら良かった

この様に言葉をかけて上げたら良かった。

果は、もっと優しくして上げられたら良かったなどなどの

後悔を、必ずしてしまうものです。

どうでも良い事でなんで、言い争いになったり、

喧嘩になったりそして、疎遠になったり。

本当バカバカしいと思う。

 

偽の姿だからそれを生きたら痛い。悲しい。

人間の本当の性質は、神の似姿に造られた性質。

それが、本当の自分の姿だからです。

だったら、今日からそのような後悔を繰り返さない様に、

今日一日を主の姿にされた通りを生きようと思う。

新しくされた人を、イエシュアの命の重さと引き換えに

取り返して頂いている事実を生きる。

恵みを無駄にしないとは、まさにその事だから。

あの時こうしておけばと言う悔いが残らない様な生き方を

随時選択する決意をする。

 

ズレた事を学習したから、注意深く意識を張り巡らさないと

慣れ親しんだ行動、思索にひっぱられるから。

ここの部分をおざなりしてはならない。成人とはそれが

普通に身に付く=実がなるトーヴの地に生ける水のほとりに

植わっている木の状態である事。

そんなチャンス、振返りを与えられている時でもあるの

です。

 

そして、その生き方の一番の大元の日は、シャバットです。

神と人とが特別な親しい関係の中に入った印でもある、

神の記念日、”印”婚姻指輪の様に永遠にまばゆく輝く印

である、記念日の止まる日。シャバット。

 

超多忙な日々、シャバットで止まると言う事をすると、

生活がピッタリ軌道修正されて行く事に気がつきます。

アバ父が言われた通りと言う事が、身に染み付く、

染み込んで行く、体験的に理解して行く事が出来ます。

 

この”神が第七日目に止まった” ”神が全ての業を第七日目迄

に終えた” そして、この日を”聖別した”と言う事実。

この中に福音の中心が全部詰まっている原点を見る事が

出来ると思います。

WWJDの原点とも繋がる、神の言われた通り、デザインされた

通り、その地上での肉眼で見える形の”神の似姿に造られた

人間=トラーの集大成の姿、ハ トラー=丸ごと神の言葉、

生きて、肉体を持って、地上に現れたトラーである

イエシュアそのものであります。

 

父が止まったら止まる。語ったら語る。

父が止まられた=全ての業が完了して、人は

神の業の現実から生きる事が書かれているから

です。神から離れて何も出来ない。

神の言葉からズレて、離れたら何も命を生み出さない。

 

神がされた通りに、神が言われた通りに生きる。

神が第七日目に止まったら、だから子供達も止まりなさいと

言われる、その単純な神の言葉、声に応答するのか、

しないのかそれは、一人一人の自由意志による選択なのです。

 

創世記 2:1 

こうして天と地と、その万象とが完成した。

2:2 神は第七日にその作業を終えられた。

すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。

 2:3 神はその第七日を祝福して、これを聖別された。

神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って

休まれたからである。

 

異教の神々の宗教と、本物の神、イスラエルの神、

全ての創造主であるお方が言われる事との、決定的違いが

あります。

”わたしの言う通りにして”と言う大前提がイスラエルの神に

はあるのです。はっきり書いてあります。

 

これを、2000年以降は、それぞれの思いに従って、

それぞれが大事だと思う生き方で生きて良いと言う様な

教えに、ローマにより造り変えられてしまったのです。

 

そして、聖書の最初の三分の2を、終った教えとする

色眼鏡から神の言葉を眺めると、創世記からマラキ書は

結局不要な教えであり、ついでにある参考程度に

読むものであり、神の言葉としての絶対性が全く無いものに

なってしまうのです。

それらの誤解を解かない限りどこまで行っても人の造り

出した教えと混ぜられた、只の宗教の教え、人の解説、

色眼鏡から見た只の人の教えを聞き続けて行って

しまう事になるのです。

 

だから、世界は今や44000万以上の教派がある現実。

人により、信条が違うと言うのは、それは変な話でも

あるのです。

もちろん、それぞれの理解や、人生の旅路の途上は違えど、

根本的な部分が神の言葉からずれてしまったら、

何でもありの世界になってしまったと言う事になるのです。

 

変わった、終ったのか、永遠不変なのかそんな事実に

グレーゾーン、中間点など存在しない。

然りは然り、否は否のどちらかなのです。

 

私がイエスさまを信じた一番最初の時に持った疑問が正に、

どうして途中で神の約束や、契約や言葉が変わるのだろう?

と言う単純で当然な疑問だったからです。

 

ずっとうまく造られた答えや解説にはぐらかされまま、

納得行かないまま来ました。

分った様で、聖書に書いてある事とは違うじゃない!

と言う最大の疑問を抱えたまま来たのが、

10年前真相を聖書の中からはっきりと知ると言う事を

教えられた。

神の言葉は歴史の途中で、変更、終ったと言う様な教えを

否定する人達が世界に存在していた事は、ローマ宗教の語る

一方的な教えしか聞いた事が無い私に取って驚きでした。

 

それは、イスラエルとイスラエルに接ぎ木され

神の仰せを、固くガードして来た人達によるものなのです。

どのみち、イスラエルにより神の言葉は今まで

一点一画変わる事なく、ガードされ、原語で書き記されて

来た事実は誰も否定出来ないのです。

これが無かったら、私達は神の言葉の真相を知る手がかりが

無いのです。

翻訳聖書だけでは、何が書いてあるのか分らない。

オリジナル原語で、一点一画、文字数も言葉もずっと

同じ”トラー”を元に書かれた証の書、トラーの書が

唯一の真実の神の言葉の証拠でもあるからです。

 

続く