シェークスピアをオリジナルで読みたい。
イタリア語のオペラをオリジナル原語で理解してみたい。
神の言葉を、神が直接語られた言葉を、
オリジナル原語で読む感動があります。
ヘブライ語の聖書は、一点一画ブレがないです。
文字数もピッタリ同じ。
そして、使われている言葉もぴったり同じ。
何何翻訳や改訂版などは、ヘブライ語聖書には無い。
それこそ、神の言葉がその通りに保存されて来た事は、
神業そのものです。
ヘブライ語聖書と、翻訳聖書とは、そこが最大に違う点です。
翻訳聖書は人の手、人の解釈や思索、余計な言葉や
不適切な言葉が加えらてしまっていたり、
そぐわない翻訳用語で、訳されてしまっている箇所も
あるからです。
しかも、当時の異端の考え、思想であった”新約” “旧約”の
2ページまで挿入されてしまって、それ以降現代に至るまで、
誰も、神の考えとは異なる、そのそぐわない不必要な
2ページ挿入を廃止しないのです。
でもそれらの不適切な翻訳箇所がどこなのか、
翻訳聖書を読んでいても、必ず認識出来る方法があります。
トラーの中身をまず知る事。学ぶ事。
ここをはっきり書かれている通りの意味で知る事が出来たら、
マタイから黙示録の中身が、全くぶれずに同じ事=トラーの
中身そのものが書かれている事実を突き止める、
把握する事が出来るのです。
神の言葉が永遠不変で、イエシュア昇天以降、神の契約、
教えは変わったと言う教えを介さなければ、
絶対に臭い箇所は、翻訳聖書を読んでいても
突き止められるからです。
ヘブライ原語で書かれた聖書の、文字だけを見ていても、
発見出来る数々があります。
日本人が漢字を見ただけで、その漢字、文字が何を意味
しているのか気が付くのと同じ事です。象形文字の様に。
そして、ある言葉は、同じ共通の文字を共有していて、
一貫して同じ意味、要素の内容を語っています。
トラーと言う言葉は、ヘブライ語では”律法”と言う言葉
で訳しては不適切な言葉です。
トラーのオリジナル原語の意味は神の教え、
インストラクションです。この不適切な翻訳と、
新約旧約と言うページをはずすだけで、世界に神の意図通り
の意識を伝え始める事が出来るのです。
そして、その言葉は様々な言葉に繋がっています。
トラー=神の教え、インストラクション。
教師=モレー 的=ヨレー 親=ホレー
これは、成長に関する事にも繋がっています。
トラー=水が投げ込まれる。
突然水に覆われれば、眠りから目覚める!
渇いた大地が潤されれば、潜んでいた種から芽が出てくる。
雨、成長、申命記32:2
神の造られた創造物、自然界を観察しても分かります。
創造物と神の言葉はピッタリマッチしています。
神の創造物は神の性質、実態を表しているから。
全ては神の言葉で出来ているからです。
神の言葉=教え=雨と同じ。渇いた大地への水。
渇いた大地を割る、秋の雨=ヨレー。
そして、大地が潤されれば植物の芽が芽生えて来る。
神の教え=雨=生ける水を捨てたら、成長、
実りが望めないのは、書かれている通りです。
全部同じルートワード、トラーと言う文字で
表される言葉と繋がっているのです。
だから、たとえ一点一画でも神の言葉を捨てたら、
迷い出る、分からなくなる、渇くと書いてある。
神のインストラクション、教え=トラーを捨てるなかれと、
神が厳重警告している通り。
神の言葉を捨てよと教える声は何の声のなのか?
あの声しかないです。エデンの園に潜んでいたあの声。
神の言葉を疑わせようとする、捨てさせようとする声。
レビ記23章は、神御自身、オリジナルのデザイン、
在りてあるお方の記念日=神の記念日です。
月、星、太陽は、神の記念日を司るために
造られたとはっきり書かれています。
その記念日の中心は、第七日目の”シャバット”です。
一年を巡り、シャバットとシャバットをつなぎ、
神の祭り=記念日が在るのです。
モアデイム=祭り=ハーギム=シャバットを
紹介している箇所です。
わたしの記念日。
あなたが住うどの場所においても、永遠に永久に
代々の渡り、祝う様にと書かれています。
わたしが在りてある方だからと書いてある。
人間が造った記念日ではないからです。
神の言われた通りにする事が神の子らへの神の大原則。
アニー ヨッドフェイヴァヴフェイ、
又は、アニー アドナイと読まれる、
わたしが、ありて在る方。
被造物が在りてある方になれないのです。
人間が神の記念日を後から創作出来ないのです。
第七日目までに全ての業は終わり、閉じている。
人がこの世界を造ったのではない。
神の造られた世界を、人間が神の意図通り治めるだけ。
ヘブライ語でトラーを読むと、途中で神の教えが変わった
のだと言う教えが、完全に異教の神々の教えの影響から
来ている、そして、異教の神々=ギリシャローマ哲学
人間思索がどっぷりしみついている、異教の神々の世界の
”異邦人”又はユダヤ人でもその様な思索の影響を受けて
いれば、その様な発想、思考回路なのだと見えて来ます。
聖書記者の中にその様なグレコローマ哲学思想、
デスペンセーション発想、思想は無いからです。
読めば分かりますが、聖書は、線上に書かれていない。
永遠と今、過去未来行ったり来たり飛んでいる。
永遠から、神の目から見る思索ではない、
人間哲学、グレコローマ分断哲学思想の様な発想を
する人達が聖書を記したら、それは神の霊感によって
書かれたものでは無くなってしまいます。
続く