新約聖書と呼ばれている箇所は、トラーの短いコメンタリー
なのです。
イエシュアが正しているのは、トラーではなく、
トラーを曲げて解釈している”人間の教え”なのです。
今も同じです。しかも、トラーは終ったなどと言う教えを
唱えるならば、その場合聖書ではどんな罪に値するか
はっきり書かれています。
トラーが終って新しい教えになったと
言う教えを自分の頭脳の中、思索の中から全て削除するなら、
神の言葉の真実が見えて来ます。
神の言葉が永遠不変の真実であり、同時に神の約束
契約は何があろうとも取り消されない事を
確信出来ます。
マタイから黙示録のまでの箇所は、
本当に短い事は目で見ても分かります。
聖書の創世記から、マラキ書までの箇所の間に印を入れて
見たら分かります。
聖書は創世記からマラキまで3分の2以上の量を占めている
事は、一目瞭然です。
そして、その中身の中核は、モーセの五書なのです。
考えてみたら分かります。
ダビデ、ソロモン、預言者などなど、
全てモーセの五書のみがテキストなのです。
溢れる知恵と、神の憐れみ、恵み、救いの全貌が
はっきり書かれているではありませんか。
一世紀時代の人達の”聖書辞書”は何か?トラー、
預言書だけです。
そして、神の霊は人のうちに始めから宿っている事、
共に住われている事がはっきりと書かれています。
使徒達、パウロ達、初代のイエシュア信者達は殆ど全てが
ヘブライ人です。異邦人は殆ど居ない。
そして、そのイエシュアの信者達は、トラー100%丸ごと
生きていた事、その事実をはっきり聖書に記されています。
その事実をきちんと把握、知ろうとすれば、神の言葉の
真実の扉がどんどんどんどん止まる事なく開き続けて行く
のです。真実は不信事実とは繋がらないのです。
だから行き止まりがたくさん出来て、理解出来ないままで
いるのです。
人の教えにより神の真実が覆い隠されている事に
気がつき始めれば、まるで違う世界が描かれている
事実に気がつく事が出来るのです。
しかも、西洋宗教の語る救いの中身は本当に狭いし、小さい。
もっともっと無限に広がっている世界なのです。
不健康な教えを通して得た”アバ父”像とは違う、
エデンの園の、神オリジナルに造られた世界、関係。
健康で健全で喜び豊にあふれる神と人と自分との関係に
入るには、神の言葉に聞入る事、
人間の本当のアイデンティティ=神の似姿の人が既に
取戻されている事実、本物のエムナ<信仰>を
再発見する必要がある事を、否定する人はまず居ないと
思うのです。
それが何だか分からない。だから今日も密かに
救われた後も、ずっとずっと欠けている何かを、
探し求め続けるのだと言う事なのでしょう。
自分が欠けているのではなくて、欠けた教えを聞き続けたら
迷い出てしまうと言う事が起きているのです。
Shabbat Shalom
イスラエルの神の記念日を迎えるには、
家族皆が一緒に準備する。
日没前にキャンドルを付けて。
準備中
イスラエルのサラダ
特別な日は特別な食卓でゆっくり