神のデザインされた永遠の記念日である印 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

シャバットに関して、いつも書いていますが、

では実際にどうシャバットを祝うの?と聞かれます。

 

スタイルなど決まりなど無いのですが、

モーセから始まり、いやエデンの園から、同じ神の記念日は

語り継がれて来ている。伝統的に口頭で語り継がれた

シャバットの祝い方の教え、エッセンスは、

イスラエルの中で語り継がれ守られて来たものはあるのです。

それを、書いてみようと思います。

そんなに難しい事では無いのです。

 

そして、神の記念日を認め、信じて生きる人達により、

神の呼び出し日に共に、神の完了の業=イエシュアの業を

思い出し、互いの存在を又神御自身を祝福する日なのです。

 

神御自身がシャバット=全ての業を終えて、

完了してとまった日。

神に造られたものは、神の似姿を生きる。神の記念日は、

福音の中核、目に見える生きて表す印でも在るのです。

神の完了の業から全て生きる、全ての人は、神の完了の

業の中に生きる様に造られた。

その醍醐味を祝っているのです。

祝福を祈り合う、これはシャバットの中心でもあるのです。

 

土曜日には、電気のスイッチも、エレベーターのスイッチも、

携帯も触っては駄目と言うのは、人の教えです。

堅苦しい〜律法〜。そんなのでは無いのです。

<ユダヤ教のグループのシャバットに参加させて頂く時は、

彼らが何を嫌がるのかを知った上で参加するのは、

最低限のマナーですが。>

 

シャバットに関しての理解、意図が、ずれている方向に

走っているからです。

携帯や、パソコン、他の人とのチャットや、テレビなど、

他の事や、他の雑事、物事に意識や、注意、又は時間を奪われ、

吸い取られて、家族や友人や大事な人、お互いが向合う時間が

無くなる様な事は避ける。

度を超えた電子機器の使用や、又は普段でもやらない特別な

重労働などは、やはりシャバットを迎える、祝う醍醐味、

意図から外れてしまうのです。

何のために止まるのか、目的不明になるからです。

王座の前に大家族一同が出る。その小単位が自分、

自分と家族、又は仲間なのです。

 

それを妨げないために、余計な労働、仕事などの手を

止めると言う事をして下さいと言う事なのです。

 

もちろん家庭でお料理温めたり、育児したり、

必要最低限の家事はやるのです。そう書いてあります。

それ以外の不必要な労働時間を取り分けて、保存し、

その時間を、自分と家族のために使う日にしなさいと

言う事です。

 

余計な活動をする事で、結局家族が一緒に過ごせない、

バラバラに過ごす、離れた時間、空間を過ごす事に

なってしまうのは、神の意図したシャバットの醍醐味から

全く外れているからです。

 

イエシュアが戒めていた、安息日に畑に入り穂を拾い集めた

弟子達に対して批判した人達の考えのズレ。

シャバットの醍醐味を理解していない、シャバットの真髄を

理解していない。

それを、イエシュアが戒めていたのです。

 

神が御自分の言葉=トラーを否定しているのでは無いのです。

神が神が言われた言葉を否定すると言う教えこそが、

奇妙な教えなのです。

シャバットが終わりなどと言う教えは、イエシュアが教える

訳が無い。トラーを正しく教えるため=成就するために来たと

言われたのです。破棄するためではない=神の意図とずれた事を

教え、生きる事を言うためでは無いと言われたのです。

 

トラー=神の言葉=人間の生き様のその解釈が、何重にも

人の教えで曲解されてしまっている、その教え。

当時の口頭トラーに対して、イエシュアが、あなたがたは〜と聞いて

いるが、わたしは〜と言うと言われたのです。

詰まり、神の意図通りのトラーの真髄、中身、エッセンス、解釈を

イエシュアが教えたのです。

人の教えとは違う、聞き慣れない解釈に、当時のラビ達は

相当腹を立てたと言う事が書かれています。

 

でも、イスラエルのシャバットの夕餉の後に、

友人達と一緒に家で映画を見たりする人達も居ます。

家の庭で、公園で遅くまで一緒に過ごす。

朝の2時頃まで楽しく晩さんを過ごしている人達も居る。

 

異教の地、デアスポラでは、イスラエルの中に居る時の様に、

シャバットや祭りを完全な休日として皆が過ごすのは、

無理だと思うのです。それは、顕著に分かります。

環境が、回りが止まる雰囲気が全く無いからです。

そして第七日目が神の記念日と認識する人達、それを

祝う人達が回りに居ないからです。

店も閉店しないし、同じ様に営業されている。

シャバットが来たと言う事を全然体感出来ない。

 

しかも、イスラエルが他の国に散らされた先きでも、

神の記念日をガードする様に仰せられている。

その事を考えると、別の国に生きて居る時に、

制限がある中で、神の定めた日を同じ様に聖別=特別な意図、

目的のために分つと言う事をする様に、太古の人達も、

そして現代でも言われているのです。

同じイスラエルの神の子らならば。

 

続く