捨てたら失う代償は大きい | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

ヘブライの世界、イスラエルではまず聖書に何が書かれている

のかを、徹底的に教えるそうです。

誰かの解釈を全く入れずに、書いてあるままをまず読む、

知る。小学1年生が、初めて習うのは、レビ記。

歌って踊ってレビ記を丸暗記。

 

そして、その後から解釈や解説を聞く、それも13歳くらいに

なってから。

 

聖書は、フィーリングや、自分感覚、自己流の解釈で

読むものではないのです。

人間の書いたものでも、書物でも、まず著者が書いた意図通り

を知る事をする、読み取る必要があるのは、

誰も否定出来ない事実です。

 

私達が、もどかしく思うのは、自分の意図通りの発言、

言葉が、相手にそっくりそのまま、自分の意図通り

受け取られていない事に、ぶつかる時では無いでしょうか?

又は真剣に聞いてない態度を見せられた時。

 

”私の言った言葉の意味が誤解されている〜。私が言って居る

その通りの意味を受け取ってはくれてない。意味を知ろう、

理解しようとする態度さえ見せてくれない。自分の言葉を

軽く取られてしまう。”

日常茶飯事の出来事ですので、誰でも理解出来る事だと

思います。人の言う事まるで聞いてな〜い!

 

誰かが書いたものが、読者に意図通りに伝達されないのなら、

受けとる側は、著者の書いた意図とは違う事を思い違いした

まま行くのは避けられない結末でしょう。

誤解が生じて、受け取り側には、書いた人の意図、

その著者の真意が伝わらないからです。

 

書いた著者の言葉の意図通りをまず知る必要性がある。

神の書、言葉を神の意図通りにまず書いてある内容を知る。

だから、注意深い神の言葉の学びが必要なのです。

 

神の言葉を知る、理解する、そのスタート地点から

ズレてしまえば、何を神が語っているのか、神の意図通りに

聞けないと言う事になってしまうからです。

神の言葉の真実から、ずらしてはならないと

徹底的に教えられるのです。

 

そして意図通りをまず知る事をした上で、解釈はその後から

出来る様なるのです。適用はその後から出来る事なのです。

まずは、何が書いてあるのかを知る事が大前提。

当然と言えば当然の事です。

 

頭痛薬なのに、腹痛のために服用する。

注意書きを読み間違えたら、勘違いした適用をする、

そう言う事になる。

 

読み手により解釈が違う、受け取り方が違うと言う事は

有り得ますが、その時の大前提は、

”神の真実” ”真理の中”その範囲の中のみに留まる事。

神の真実の中に留まるためには、神の言葉の意図通りを、

とにかくまず知らなくてはならない。詳しく、注意深く学ぶ。

その原点にいつも戻される、立たなくてはならのです。

 

その点がズレなければ、人それぞれ様々な神の言葉の真理の

側面が見えてくるのです。これは神のデザインです。

 

1人の人だけが、全てを知る事が出来ない。

1人のワンマンショーではない。

お互いが、お互いを映し出す鏡の如く、1人1人が

ユニークに造られて、その人しか目る事が出来ない面がある。

それを、他の人と共有する。そうすると、自分が気が

つかなかった違う面をどんどん見る事が出来る。

お互いが、その様なキャッチボール、または雪だるまを

一緒に転がしてどんどん大きくして行くという事が

出来て行くと言う神のデザインだからです。

 

1人1人がユニークな、その人だけが持つ独自の

インテリジェンスを与えられている。

指の指紋が全員違う様に。

 

独自のユニークなその人だけのインテリジェンス。

それが、”メノーラ”と言う、神の家に置かれる光、

七本のもので、表されている。7つの軸と、オリーブ油を

入れる7つのカップ。

7=全部で完了の姿、一体。

世界を照らす光は、全員でワンセット。

1人では、一本では7の軸のメノーラにはなれない。

体は一部臓器では、造られていない。

ワンマンショーでは無い。”体”の器官で表される人類は、

1人1人が重要な体の一部として造られているから。

 

そして、神の言葉は一点一画差し引き、付け足しする

なかれの神の忠告、警告の如く、総合ビタミン剤、

栄養素のどれも、勝手に要らないから捨てますと、

造られた人間が、人間の判断で捨てる様な事をする事が

出来ないのです。

 

神の言葉、仰せを捨てるとは、大欠損。

代替えの出来ない損失。

自分の生き方、まことの命に生きる事に欠けを招く。

神の言葉を捨てるとは、シャローム=欠けの無い姿で

生きる事を妨げるものなのです。

 

捨てたら栄養不足になる。欠乏感が出る。

捨てたら、神がどんなお方であるのかを、深く深く知る術を

捨てると言う事だからです。

そして、本当の自分を知る、本当の生き方を知る事

の情報を捨てると言う事。

捨てたら深い所が分からなくなると言う、

その点に、必ずぶつかるからです。