マタイ15章に記述されている、イエシュアと、
イエシュアに反対する、ラビ達のやり取り。
1世紀の、イエシュアに挑戦したそこに登場するラビ達は、
正義感に満ちて、真剣そのものだったはずです。
自分達の慣れ親しんだ、見聞きして来た伝統の教え、
”ハラハー”と呼ばれる、トラーをいかに生きるかの
解釈、”口頭トラー”。彼らの伝統のその解説の中身とは、
全く違う事を、イエシュアが語ったからです。
見聞きしない教え=異端であると認識するからです。
偽の教えを追放するぞ、我らの伝統を覆すその様な教えは、
お払い箱へと持って行くぞ。
今の時代で言えば、一種の”ハラスメント”。
ハラスメントは、日本語で、嫌がらせとか、執拗な叱責と
ありますが、威嚇、”脅し”の意味の方がピッタリです。
相手が退く様に、威嚇する、脅す。
マタイ15章でのラビ達の行為は、”神の権威”=神の意図通り、
トーヴの発言、行動をしているイエシュアに対して、
彼らの行為は、”呪い”〜神の目に何の意味も無い、
無価値な事を言っていた事が書かれています。
ハター=的外れな言動、行動。
権威振りかざし、脅し、恐怖で封じ込める事です。
偽の教えは〜、半ば脅しかけて、封じ込める、
押さえつける、追い出すのが神の御旨だ。
世界の平和、正義のためにやるのだと、
本気で信じていた人達。
そして、目の前に”生ける神”が居ても、全く気がつかない。
その救い主=イエシュアが偽の教えをしている、
詰まり自分達の解釈とは違う、トラーの解釈をしている事に
憤慨していた。あの手、この手、裏の手を使っても、
この新参者のラビを、追放、封じ込めてやるぞ〜と言う目的
があったからです。最後は処刑にまでなるのですから。
自分達のお目には叶う事が無い、ラビ イエシュア。
しかも、神の様に<神ですが>権威を持って話す態度に、
殺したいと殺意を抱くほど。
神への冒涜だ〜と真剣に、考えていたラビ達。
彼らの伝統の教え、イコール神の言葉の権威同等だと考え、
目の前に、トラー預言書、諸書に書かれた、救い主=”神”
イエシュア”が居るのに、その事実にも気がつけないまま、
議論していたのです。
しかも、自分達の教えとは違う事を言う、その神が直接語る
トラーの中身であるのに、その解説が変だと思っているズレ
さ加減は、イエシュアから盲人と言うレッテルを貼られて、
呼ばれてしまう位の盲目さ。
自分が正しいとしている、これが正しいと考えている、
神の言葉の解釈を生きて、そして、それを人にも生きる事を
強要している、その事が実は、神の意図とは、
全く外れた所にある。
人が、神の目線から、神の見ている意図通りに、
神の言葉を知る事が無ければ、そんな事をしてしまう
可能性がある事が、はっきり書かれています。
人は、神から離れて、神の真実から離れて、命を生み出す
事が出来ないからです。
それが、タメー=汚れ状態、=命から切り離された状態、
神の命の実を生み出さない状態と言う意味です。
正義の為に、神のためにと真剣に考え、一生懸命やっている、
発信、発言している、その内容こそが、実は、一番
神に対して、最も敵対している行為をやっているのかも
しれない。
人を神に近づく事から、一番妨害している行為を、
実は自分がしているのかも知れない危険がある。
人を、神の言葉、神の実態から引き離す、注意を、
気をそらす、はぐらかす行為をしているかもしれないのです。
様々な正当的である様な、理由を付けて。
神の言われる事以外、他に何かもっと大事なものがあるよ
〜と、あのエデンの園の地を這う動物が言ったように、
神の言われた事から注意を反らせるものが,世の中には
たくさん蔓延しています。
命の木=神の言われた言葉、言われた通りをガードせよと
言われた、そのシンプル タスクを忘れさせる。
盲人が盲人の手引きをしていると、イエシュアが言われた
のは、その事です。二人共穴に落ちる。
他者を神に出会う事、神の真実の世界に出会う事から、
神の完了の業で取戻されている本物の自分で生きる事を、
実は妨害している事にさえ気がつけないのだと
言う示唆でもあると思います。
自分が真剣に熱心に言う、やる事が、又、そのやり方が、
神の意図からズレているかも知れないと、
いつも考える必要がある。
それが、天の栄光を地に映し出し表すという事。
アバ父が語ったら語る、アバ父の語る内容そっくり
そのままを語る。
アバ父が止まったら、止まる。
アバ父が黙ったら黙る。
荒野での、雲と火の柱の教えとピッタリ一致している。
人は、神の実態を離れては、命を生み出せない、
神の目に無価値な意味の無い行動をしてしまう
と言う事。