神に対して牽制する マタイ15章 追記 1 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

1世紀当時、イエシュアが、御自身の国であるイスラエルに

来られて、歴史のある時点、この地上で人々の間に生きて、

人々に触れ続けた。

イスラエルの神が人々の間に住われたのは、

イエシュアが来るずっと以前からある事実ですが。

 

その時代に居た”トラー学者”=ラビと呼ばれる人達。

私達の想像を遥かに超えた、トラー学者のつわもの達。

そして、その当時の、ラビ達もその道の、学者の中の学者。

 

ヘブライ語トラー、預言書などをくまなく丸暗記、読めて、

学び続けていながら、人の教えの付け足し=”イズム”

=宗教〜ユダヤ教と言う教え、人の作り出した、

編み出した教えの解釈に、神の言葉の意図が、

すり替えて行ってしまっていた。

 

神の言葉の真実、命に繋がる発見を妨げる教えが、

その当時も蔓延していた事が、書いてあります。

 

”あなたがたは、〜と聞いて来たが、わたしは〜と言おう”と

言ったのは、当時のラビ達のトラーの解釈の中身が

ズレている事に関してであり、イエシュアがトラーを破棄、

否定する発言をしているのではない、その誤解を解けば、

絶対に聖書の中身の真実の、その先の奥深い世界

が見えて来ます。

 

今のイスラエルでも、多くの人は、神の言葉などに

興味も無いと言います。

それは、トラーの中身を、”ラビ達”の教えが、

がんじがらめにしているからだそうです。

すなわちここのマタイ15章で書かれている様な、

人間の教えにすり替わったその内容に、心底嫌気、

”辟易”しているからだそうです。

ラビの教えに対して露骨に嫌悪感を表す、

覚える人達が居るそうです。

 

厳しい、ややこしい、人間の教えの数々。

ラビ達が決めた決め事通りにやらないと、怒られる〜!

 

シャバットに、電気のスイッチを触っては駄目だとか、

テレビや、パソコン、電化製品を付けては駄目だとか、

エレベーターのボタンを押しては駄目だと言うのも、

人間の教えのひとつなのです。

シャバットにテレビを付けた老人ホームの老人が、

ラビに殴られたという事件を聞いて、胸がつぶれる思いを

した事があります。ひ、ひ、ひ酷すぎる。

 

人が本来の姿を、妨げられず、安全に生きるためにある

神の言葉が、逆に、人を縛り付けるものに変身してしまう。

何が大事なのか、人が大事なのに、人間の教えのルールが、

優先され大事になり、人が苦しむ事になる。

本末転倒の世界になってしまう。

 

宗教=どんな形であれ、人間の教えは、どの道、

人を縛り付けてしまうからです。

どの宗派の世界も、全く同じでしょう。

人の教えなのに、神の教えだと言われ、教えられ、

その教え通りを生きる様に言われる、強要される。

そうしないと、我々の仲間と認めませんとまで言われる。

いや、神に対して罪を犯しているとさえ言われて、本気で

そうかもと信じ込んでしまう人達も居るのです。

 

何のために、神の為に?自分を、家族を犠牲にしなくては

ならないのか?

なんでそんな事させられなくては、ならないのか?

それが神の仰せなのだろうか?と疑問に思う人達が居る。

でも、聖書に根拠を見いだせない。

いや、聖書を読み違えているだけだと、思うのです。

 

只、人として、普通に生活をしたいのに、

出来なくなってしまう。

神の仰せ?いや違う、只の人が作り出した、

神の教えとは関係の無い、命を損なう、命を生み出さない、

人の教えである事が実は、たくさんあると言う事なのです。

神の言葉は、宗教活動をやるためにあるのではないのです。

神の言葉は、宗教ではない。

 

神の言葉は、命のパン、神の言葉により綴られた人間が、

神の言葉を食べて生きる。只それだけ、シンプルなのに。

人が、安全に、喜び損なわれないで、神の取戻してくれた、

本当の自分を個人として、家族の一員として、地域で、

職場で、社会で生きるためのものです。

 

その人間の教えに縛り付けられ、神の言葉の意図、真理、

素晴らしさ、神の与えて下さった本来の命のエッセンス、

本来の姿に生きる事に、解放される事が無いから、

縛り付けられ、結局人の教えの奴隷になってしまう。

救われたのに、又人の教えの奴隷に逆戻り。

 

トラーを、ヘブライ聖書を知る人達でさえ、神の目から

見る見方とズレてしまうのならば、尚更、トラー、

神の言葉自体を否定し、今の時代は聖書の最初の三分の2の

教えは、呪いであり、終ったと言う教えの色眼鏡を通して、

神の言葉を考えれば、もっと別方向、別の領域にズレて

行ってしまうのは、避けられない結末なのです。

三分の2の量だけを考えたら、そこに大事な事が書いてある

から、三分の2も費やされているのだと、解釈した方が

正解ですが。

 

”モーセ”以降の、ヨシュアや、ダビデ、預言者達は、

”トラー”=モーセの五書=契約書だけが、

彼らの教科書だったのです。その事実を考えてみたら、

見えて来ます。

しかも、イエシュアは、”モーセの書を今信じられないのなら、

何を言っても無駄”と、御口から、直接そう言われたのです。

全ての知恵は、トラーの中にあるからです。

知恵の宝庫、全てが”トラー”から発しているからです。

 

トラー、モーセの五書は、世界で唯一、

”生けるイスラエルの神”と言う存在、他に比べるものが

ない存在、”在りて在る”と言う、”動詞”が名である、

そのお方が、人へ”契約”と言う形で、関係を結んでいる。

 

その関係は、法的にも、永遠に固く結ばれている。

神の側では、決して破られる事が無い。

人の側で神の契約を破棄し、破っても、神の側では、

どんな事があっても決して破られる事は無い。

破棄される事の無い永遠の関係に入った詳細全てが

書かれている、証明書でもあるのです。

 

他の神々はそんな“契約書”なるものを、人間に対して、

与えてなんていません。

保証無し、責任無し、お互いの関係、その関係の内容を

証明する根拠も無い、自分が神々を喜ばす事に失敗すれば、

明日は、自分は捨てられてお払い箱へ行くかもの如くの、

只のギブアンドテークの、不安定なビジネスライクの世界。

まあ、他の神々は、神ではなく、別の霊=サタンですが。

 

そして、神の約束=言葉は、一致,調和、矛盾、変化が無い。

神の言葉は、不変、一貫している。

歴史の途中で、神の言葉を、神が変更したり、曲げたり、

足したり、差し引きしたり、しない。

人が神の言葉に手を加えたり、教えを付け足すけれど、

神は、御自身の口から発言した=言葉に対して、

その様な事は決してしない。

何も変わらない。だから、信頼に値するのです。

 

続く