トラーの解釈を人間の教えで塗り替える マタイ15章13〜 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

マタイ15:13 イエスは答えて言われた、「わたしの天の父が

お植えにならなかったものは、みな抜き取られるであろう。

 

詰まり、”神が語られない事、神の言葉の中に無い教え、

神の実態に属さないもの”は、アバ父に属さないから、

それらのものは、最後皆抜き取られると言われたのです。

 

主よ、主よと、主の御名を唱えても、それが”アバ父”に

属さない行動、教えなら、何を語ろうが、何をしようが、

神の目から見たら、異物、何の意味も無い、神の目には、

価値がゼロ=無価値だと言う事が、

はっきりと書かれています。

”呪い”と言うヘブライ語で書かれている意味は、

”神の目の前に価値が全く無い”状態、羽の様に、

煙の様に軽い、意味無い存在、状態になる事を指して

使われる言葉でもあるのです。

 

神の絶対的主権、神の言葉が永遠不変であるから、

信頼出来るのです。絶対的安心を持てます。

アバ父に属さない事を言って、やっても、あなたの熱心さを

買おうなどと言われた日には、どうしようと思う。

 

あなたの自主性や、主体性、想像力、発想で作り出した教えや、

あなたの熱心な動機を高く買おうなどと言う、いい加減な事を

言われる神ならば、全く信頼出来なくなってしまうからです。

 

何が真実なのか分から無くなり、混乱してしまいます。

主よ、あなたの主権、あなたの言葉の主権はどこにあるのか?

と言う事になってしまうからです。人間主体になってしまう。

 

嘘でも、何でも、自分の思いが大事と言う世界に

されてしまったら、それこそ、自分教の世界になり、

何が神の本当の真実なのか、見分けがつかなくなる

からです。

 

聖書には始めから、”神の言われた通り”を、言われた

通りの方法で全てしなさいとはっきり、クリアーに

厳重な忠告として、書かれている。

 

神の言葉は、絶対であり、永遠不変です。

そこを、変えてはならない。

神が、神の言葉を途中で削除したり、変えたりしないから、

神=神の言葉が、絶対的主権である事に対しての、信頼、

安心が出来る。自分の考えや思いは、ズレていれば、

正してもらうべきもの。それだから、神に対して、

絶対的信頼が出来て、安心出来る。

 

マタイ15:14 

彼らをそのままにしておけ。彼らは盲人を手引きする

盲人である。もし盲人が盲人を手引きするなら、

ふたりとも穴に落ち込むであろう」。

 

目の前に”神が居て、神が直接語られる、

トラーの中身の解説が、自分達の伝統の教えが

何よりの権威であるとし、それに固持する人達。

神の直接言われる言葉、意味に耳を傾けようとさえしない。

あなたは先生と呼ばれるなかれとは、神を超えて、自分を

神の言葉の、絶対的権威だと考えるなかれと言う事にも

繋がります。

 

しかし、当時のラビ達は、トラーを否定する事など、

そんな事をするなんて、100%無かったのです。

今の世界は、トラーは終った、律法だ、古い無用な教えと、

神の言葉を捨てているのです。しかも、聖書の三分の2を

占める部分をその様に取り扱い、最後の三分の1の箇所から

読む様に教える。上巻と下巻は同じ本であり、繋がっていて、

全く同じ意味で書かれている。最後の三分の1は、最初の

三分の2のダイジェスト版、短いコメンタリーバージョン

であるのに。最初の部分を深く知らないなら、最後の中身が

見えて来ない。神の知恵を捨てたら危険と書かれている。

イエシュアが来られたら、一体その現状を何と言われるのか。

 

この1世紀当時のあるラビ達は、そのトラー=神の言葉の

解釈が、生きると言う事に対しての適用が、全く神の意図と

ズレていたから、人間の伝統の教え、あなた方は、何何〜と

聞いて来たが、わたし=イエシュアはこう解説しようと、

トラーの中身の適用に対しての、正しい教え、解釈を、

イエシュアは説き正したのです。

 

それを、トラーを終らせた新しい教えを、イエシュアが

教えているのだと、宗教神学の目から見る教えが、

ズレた教えを解説してしまって、それを世界に流出し、

その教えが浸透して、神の言葉は変わったと言う神学が

定着してしまったのです。

誤解が誤解を、ずっと生み出し続けるのです。

 

自分達の考えとズレている、イエシュアの弟子達の行動。

食前の手洗いをしないからと、イエシュアの弟子達を批判し、

イエシュアの発言を否定する、盲目状態”。

詰まり、神御自身、イエシュア=救い主が前に居ても、

語りかけても、一緒に食事をしていても、気がつかない。

目が開かれて居ない、盲目状態。

 

マタイ15:17

口にはいってくるものは、みな腹の中にはいり、そして、

外に出て行くことを知らないのか。

 

口からはいってくるものは、外に出て行くのだから、

どんな食べ物を食べようが、人を汚さないと言う話を

しているのでは無いのです。

 

ここで、イエシュアが語られている人間の”食べ物”イコール

レビ記11章に書かれた、神の造った、神の定めた人間の

食べ物に限定されている事は、決まっているのです。

 

それ以外の考えは、誰もしない世界で語られているのです。

と言うか、神の言葉を否定するその思考回路は、

聖書に出て来る人達の中では、誰も持っていないのです。

 

100%、神の家=神殿に持ち込めない、コバーンの動物と

して神から指定されていない、汚れた動物を食べると言う

発想は、トラーを知らない、トラーが永遠不変の神の

言葉、人間の生き様、契約である事を認識しない、

100%丸ごと、異教の神々の世界に生きる、

異邦人的発想なのです。

 

2000年以降は、どんな食べ物食べようが、外に出るから

汚れないと言う話をしているのではないのです。

人間が途中で、進化しない様に、神の言葉も変わらない。

 

人間の食べ物=食せる動物は、神の家=神の宮に持ち込める

コバーン以外に無いからです。だから、イスラエルの神に

属する人達は、自分達を”神の宮”とも呼ぶのです。

神の宮に”汚れ”タメーのコバーンは持ち込めない、取込めない

食せない。神の宮である、自分の体の中にも取入れられない。

 

ヘブライの世界、トラーを生きて居る世界を、

はっきり知れば分かります。

 

イエシュア、そして、イエシュアの前に来られた預言者、

そして、使徒、パウロ達全ての人達は、神の永遠不変の

言葉=トラーの中身を変えた話など、一ミクロンも、

創世記から黙示録の中で、どの箇所でもしていないのです。

この誤解が解ければ、はっきり語られている意味が、

見えて来るのです。

 

続く