マタイ15:13 イエスは答えて言われた、「わたしの天の父が
お植えにならなかったものは、みな抜き取られるであろう。
詰まり、”神が語られない事、神の言葉の中に無い教え、
神の実態に属さないもの”は、アバ父に属さないから、
それらのものは、最後皆抜き取られると言われたのです。
主よ、主よと、主の御名を唱えても、それが”アバ父”に
属さない行動、教えなら、何を語ろうが、何をしようが、
神の目から見たら、異物、何の意味も無い、神の目には、
価値がゼロ=無価値だと言う事が、
はっきりと書かれています。
”呪い”と言うヘブライ語で書かれている意味は、
”神の目の前に価値が全く無い”状態、羽の様に、
煙の様に軽い、意味無い存在、状態になる事を指して
使われる言葉でもあるのです。
神の絶対的主権、神の言葉が永遠不変であるから、
信頼出来るのです。絶対的安心を持てます。
アバ父に属さない事を言って、やっても、あなたの熱心さを
買おうなどと言われた日には、どうしようと思う。
あなたの自主性や、主体性、想像力、発想で作り出した教えや、
あなたの熱心な動機を高く買おうなどと言う、いい加減な事を
言われる神ならば、全く信頼出来なくなってしまうからです。
何が真実なのか分から無くなり、混乱してしまいます。
主よ、あなたの主権、あなたの言葉の主権はどこにあるのか?
と言う事になってしまうからです。人間主体になってしまう。
嘘でも、何でも、自分の思いが大事と言う世界に
されてしまったら、それこそ、自分教の世界になり、
何が神の本当の真実なのか、見分けがつかなくなる
からです。
聖書には始めから、”神の言われた通り”を、言われた
通りの方法で全てしなさいとはっきり、クリアーに
厳重な忠告として、書かれている。
神の言葉は、絶対であり、永遠不変です。
そこを、変えてはならない。
神が、神の言葉を途中で削除したり、変えたりしないから、
神=神の言葉が、絶対的主権である事に対しての、信頼、
安心が出来る。自分の考えや思いは、ズレていれば、
正してもらうべきもの。それだから、神に対して、
絶対的信頼が出来て、安心出来る。
マタイ15:14
彼らをそのままにしておけ。彼らは盲人を手引きする
盲人である。もし盲人が盲人を手引きするなら、
ふたりとも穴に落ち込むであろう」。
目の前に”神が居て、神が直接語られる、
トラーの中身の解説が、自分達の伝統の教えが
何よりの権威であるとし、それに固持する人達。
神の直接言われる言葉、意味に耳を傾けようとさえしない。
あなたは先生と呼ばれるなかれとは、神を超えて、自分を
神の言葉の、絶対的権威だと考えるなかれと言う事にも
繋がります。
しかし、当時のラビ達は、トラーを否定する事など、
そんな事をするなんて、100%無かったのです。
今の世界は、トラーは終った、律法だ、古い無用な教えと、
神の言葉を捨てているのです。しかも、聖書の三分の2を
占める部分をその様に取り扱い、最後の三分の1の箇所から
読む様に教える。上巻と下巻は同じ本であり、繋がっていて、
全く同じ意味で書かれている。最後の三分の1は、最初の
三分の2のダイジェスト版、短いコメンタリーバージョン
であるのに。最初の部分を深く知らないなら、最後の中身が
見えて来ない。神の知恵を捨てたら危険と書かれている。
イエシュアが来られたら、一体その現状を何と言われるのか。
この1世紀当時のあるラビ達は、そのトラー=神の言葉の
解釈が、生きると言う事に対しての適用が、全く神の意図と
ズレていたから、人間の伝統の教え、あなた方は、何何〜と
聞いて来たが、わたし=イエシュアはこう解説しようと、
トラーの中身の適用に対しての、正しい教え、解釈を、
イエシュアは説き正したのです。
それを、トラーを終らせた新しい教えを、イエシュアが
教えているのだと、宗教神学の目から見る教えが、
ズレた教えを解説してしまって、それを世界に流出し、
その教えが浸透して、神の言葉は変わったと言う神学が
定着してしまったのです。
誤解が誤解を、ずっと生み出し続けるのです。
自分達の考えとズレている、イエシュアの弟子達の行動。
食前の手洗いをしないからと、イエシュアの弟子達を批判し、
イエシュアの発言を否定する、盲目状態”。
詰まり、神御自身、イエシュア=救い主が前に居ても、
語りかけても、一緒に食事をしていても、気がつかない。
目が開かれて居ない、盲目状態。
マタイ15:17
口にはいってくるものは、みな腹の中にはいり、そして、
外に出て行くことを知らないのか。
口からはいってくるものは、外に出て行くのだから、
どんな食べ物を食べようが、人を汚さないと言う話を
しているのでは無いのです。
ここで、イエシュアが語られている人間の”食べ物”イコール
レビ記11章に書かれた、神の造った、神の定めた人間の
食べ物に限定されている事は、決まっているのです。
それ以外の考えは、誰もしない世界で語られているのです。
と言うか、神の言葉を否定するその思考回路は、
聖書に出て来る人達の中では、誰も持っていないのです。
100%、神の家=神殿に持ち込めない、コバーンの動物と
して神から指定されていない、汚れた動物を食べると言う
発想は、トラーを知らない、トラーが永遠不変の神の
言葉、人間の生き様、契約である事を認識しない、
100%丸ごと、異教の神々の世界に生きる、
異邦人的発想なのです。
2000年以降は、どんな食べ物食べようが、外に出るから
汚れないと言う話をしているのではないのです。
人間が途中で、進化しない様に、神の言葉も変わらない。
人間の食べ物=食せる動物は、神の家=神の宮に持ち込める
コバーン以外に無いからです。だから、イスラエルの神に
属する人達は、自分達を”神の宮”とも呼ぶのです。
神の宮に”汚れ”タメーのコバーンは持ち込めない、取込めない
食せない。神の宮である、自分の体の中にも取入れられない。
ヘブライの世界、トラーを生きて居る世界を、
はっきり知れば分かります。
イエシュア、そして、イエシュアの前に来られた預言者、
そして、使徒、パウロ達全ての人達は、神の永遠不変の
言葉=トラーの中身を変えた話など、一ミクロンも、
創世記から黙示録の中で、どの箇所でもしていないのです。
この誤解が解ければ、はっきり語られている意味が、
見えて来るのです。
続く