聖書の最後の三分の1にある、パウロの書簡は、当時の
パリサイ派の人達の教育方法であるものでした。
そして、エルサレムをセンター、拠点として、
諸外国に散っている人達も、ラビ達に、トラーの中身を
どの様に置かれた場所で生きて行けば良いのか?と言う、
様々な質問を手紙で、書き送ったのです。
そして、パウロが、その回答をその人々に送ったものが、
パウロの書簡です。
ヘブライの中のヘブライ、パリサイの中のパリサイの子と、
自分自身の事を宣言したパウロが、トラー以外の新種の、
別の教えなど、教え、語る訳など無い。
プラス、もしパウロが、イエシュアや、モーセ、預言者
達が書かれた書とは、違う教えを唱えるとしたら、
完全に、別宗教の教祖さまになってしまう。使徒として、
また聖書を書き記す記者として、失脚させられた事でしょう。
パウロの書簡にある、ある事柄、内容は、諸外国に在る、
ある文化、ある地域の人達に対しての、その当時の
トラーの中身を、生きる上での適用例が書かれていますから、
現代の、又は別の国に住む人達に、パウロがその時代の、
ある地域の人達に回答した、生き方の一例が、
直接適用される内容では無いかもしれませんが、
トラーの中身のエッセンスは変わらず同じです。
基本的な、人間の”生きる”と言う事に関しては、
神の言葉は、絶対不変であるからです。
マタイ15章の11節以降ですが、この様な箇所を取り上げて、
トラーが2000年以降、変更されたもの、破棄された証拠が
あると言う解説を聞いて来たと思いますが、それは、
神の言葉に照らし合せて真実ではないです。
まず神の言葉は永遠不変だと言う大前提から、
考えてみる事が必要です。人の教えと言う、色目メガネを
かけているのだと言う事を、考えてみる、気がつく事が、
何より大事です。
自分は、神の言葉を直接ちゃんと受け取っていると
思っていましたが、実は様々に隠された”分厚い色眼鏡”と
言う先入観を持ったまま、神の言葉をその思考回路から
眺めていると言う事に、気がつけなかったのです。
考えてみたら、異教の神々の国に、異教の神々の慣しに生き、
先祖代々慣れ親しんで来た自分の生い立ち、足跡を考えたら、
先入観たっぷりな思考回路があるのは当然なのです。
その事に気がついた方が良い。自分の知らない所で、
神の目から見る事とは違う視点で眺める事が、
染み付いたしまっている。神の言葉をその通りに
知ると言う事を、妨げて居る事が無数にある現実がある。
只その事に気がつけないだけで。
神の目線、視線、視点にぴったり合わせて、
神の言葉を読む事は、何より必要な事です。
そして、霊的とか、肉体的とか区別しない。
全存在は、全身は霊、心、体と一体、分けて考えているのは、
ギリシャローマ思考です。
ヘブライ語では、生きるものは、霊体心などと
分かれた言葉で表されてはおらず、”ネフィシュ”
と言う、ひとつの存在と言う言葉で書かれています。
そして、神の言葉で造られた世界は、神の言葉とぴったり
マッチしているからです。
神は、私達人間の生きる事に関しての、細部に渡り、
最新の注意を払っている。
赤ちゃんを生んだ母親が、その子のために、
生活の全てに気を配るのと同様に。
詰まり、神のデザイン通りを生きるため、
食べる事にも、何をするにも、生きる事に関しての、
詳細がトラーに深く書かれている。
詰まり、車にガソリンを入れないで、
水や、オレンジジュースを入れたら、
走れない、壊れるそれと同じです。
私達の生きる全ての領域に、関心を払い、
注意を払い、神御自身がデザインした通りの、
詳細を知らせて下さっているのです。
そのインストラクションが、途中で変わらない。
何故なら、人は進化しないから。同じ人間だから。
そして、そのインストラクションの詳細そのものが、
神に属している存在=聖なるものであり、自分が誰、
どんな存在であるのかと言う事を、同時に教えているのです。
だから、”神の宮”と言うのです。
神の宮の定義とは何?それは、トラーに書かれています。
神の言葉の意図を知って、それを実際に生きて行く時に、
深く深くその奥義の詳細を手に取る様に、
実体験して行く事を発見します。
マタイ15章
10. それからイエスは群衆を呼び寄せて言われた、
「聞いて悟るがよい。
11. 口にはいるものは人を汚すことはない。かえって、
口から出るものが人を汚すのである」。
11節で、口に入るものは人を汚す事が無いと書いてあるのを
読んで、口に入るもの、全てが人を汚す事が無いと読むのは
異邦人だけです。
イエシュアの前に、その当時、そこに居た人達の中で、
誰一人、イエシュアがトラーの中身を覆す教えを発言した
などと考える人は、1人も居ない世界での話なのです。
詰まり、神のトラーを否定する=イコール石打の刑に
相当する、神に対しての極めつけの冒涜だからです。
神の言葉を否定する=人間が神の上に立ち、神の権威の座に
座ると言う事だから。
詰まり、トラーを否定して、新しい教えを教えたと言う
その様な空想話を削除しないと見えて来ない箇所です。
イエシュアが、論じている論点は、食べ物の種類に
関しての話ではない事、普通に読めば分かるはずです。
ここでの論点は、”人間の作り出した伝統の教え”は
意味が無いと言う事。
ラビ達が作り出した、”手洗いの儀式”、長い伝統、
人の言い伝えで伝承されて来た、トラーには書かれても
いない、その”手洗いの儀式”をしない、イエシュアの弟子達。
ラビ達、彼らの目、判断から見た、汚れている手で食べ物に
触れていて、汚れた物を口に入れて、この弟子達は
汚れた状態になったと言って居る。
ここで、イエシュアが語られている”食べ物”とは、
レビ記11章にある、神の定めた食べ物に限定!
されているのです。その事実をぶらしては、駄目なのです。
それ以外だと考える、発想するのは、まさに異邦人頭脳。
詰まり、人間の作り出した伝統儀式に乗っ取り、
食前の手洗い儀式をしない手で、神の定めた食べものに
触れたら、その食べものは、汚れると本気で信じていた、
当時のラビ達に対して、イエシュアが発言していると言う、
正しい理解に戻せば見えて来ます。
イエシュアが、論じている論点は、”人の教え”は意味が無い。
人造儀式手洗いの儀式をしない手で、食べ物を食べても、
その事は人を汚さないと言って居る。
そして、11節で、
口にはいるものは人を汚すことはない。
かえって、口から出るものが人を汚すのである」。
と回答しているのです。
続く