WWJD?と唱えるならば、その通りに実際してみないと、
スローガンばかりで、実態が何も無いと言う事です。
イエシュアが教えていない、されていない足跡を
生きる事ほど、無駄、徒労、渇く、意味無い事は無いです。
それが、宗教の世界。それが、イエシュアが戒めていた、
人間が神の言葉に余計な教えを付け足して、人にそれを
生きる事を、強要していた”当時のズレた”教えに対する
警告です。
トラーをイエシュアが否定していたなんて誤解しては
ならないのです。
いつの時も、神の警告は”神の言葉”を薄める、変形させる
人造の教えを付けたしたり、神の言葉を排除するその事へ
対しての警告なのです。
生きる事はキリストとあるのは、生きる事=イエシュア=
その実態はトラ−の中に書かれているのです。
聖書の最初の三分の2は律法=古い廃れた教えで、最後の
三分の1は新しい契約などと、聖書の事実と異なる、
人間の作り出した教えを信じ込めば、迷路に突入です。
エハッドである神=時代ごとに変化し、別の教えが
出て来たなどと言うのは、聖書の神の言葉の事実とは
全く反する教えです。
だれがその教えを作り出したのか、ちゃんと歴史の中に
証拠事実があります。人間です。ローマ皇帝です。
別々の2つの教えがあると勘違いしていれば、絶対に
見えない神の世界があるのです。
2つの別の教えと言う、4世紀に人間が創作した教えを、
ハメッツ=パン種=つまずきの岩をまず取りのけない事には
真実の人生へのスタートが、完了の業で今を生きれる人生に
切り替える事が、決して始まらないのです。
神の言葉=約束は途中でレベルや性質が変化するもので
あるのだなどと、聖書の中に書かれていない事を、
絶対個人個人が確認する必要があるのです。
偽の都市伝説に聞き入れば、おしまい。その先は、
行き止まりだからです。その先にあるのは、神の言葉を
薄めて変形させた、宗教=人間の教えの世界、縛られる世界が
待っています。
”あなたがたは真理を知り、真理はあなた方を自由にする”
不真実、不真理は、人を自由にしない、縛り付けるのです。
でも、神の言葉を変えなければ、どんどんどんどん扉が
永遠に開いて、神の実態の内側を体験する事に
入って行けるのです。家庭に居乍ら、自分の置かれた場所に居乍ら、エデンを体験出来る。
律法=古い廃れたレベル低い教えと勘違いしている。
トラー=イエシュアそのものなのだと言う、ぶれない
事実を発見して初めて、聖書に書いてある”本物のイエシュア像”
イエシュアの顔=実態に出会えるのです。
別のイエシュア像、別の人相のイエシュアを私はずっと
聞き続けていたから、よく分かるのです。その違いが。。。。
声の内容、色もトーンも音声も音量も話しかけられ方も
全く違う、永遠不変の愛、憐れみに満ちたアバ父の声。
イエシュアも地上に居られた時、弟子達や、弟子達の家族と
仲間と”シャバット”を楽しく過ごしたのです。
神の中で、神の前に出て、自分と、家族と、仲間が親しく
結び合い、再会し、祝福、修復、回復、確認する日。
忙しい世の中、特別な日に時を設ける意味の深さ。
もちろん、楽しく、喜びを持って、誰もが待ち望む日です。
これは、どこの国の人でも分かると思います。
誰もが楽しみにする、記念日、皆が同じ意識を向けて、
その日がどんな意味を持つのか、考え、体験する。
日本のお正月などの様に、皆が同じ意識で、同じ時を過ごす。
家族親戚、友人と集る、一緒に過ごす、出会う。
それと同じく、イスラエルの神の子らが、神に言われた日に、
<人間が勝手に決めた日ではなくて、
主の日=世界共通同一の日に>
皆同じ時に、同じ意識で王の王、主の主の御前に出る、集い、
祝福しあう。麗しい時なのです。
これこそが、一つ家族、隔ての壁を取り除いた実態で
ある事が聖書に書かれているのです。逆をしているのです。
様々な分裂は、神の言葉から反れてそれぞれが勝手な教えを
編み出し、それに歩む事を続けている結果なのです。
神の家の修復の業に参加するのか、しないのか?
自分は一体、何を根拠に信じて、何を生きて居るのか?
神の言葉?それとも人の教え?
そんな嬉しい、楽しい、麗しい日を、律法律法と、世界は
言い続ける。シャバットの意味を知らないから、
大声で、”それは終った律法の教え”と宣言し、
神の言葉=神のデザインの実態を否定する、退ける。
気がつけば涙涙の実態、現状。
神を誤解させる声、言葉の連続。
預言者の声を退けた=預言=トラーの中身そのものを
伝えた預言者の警告を大衆は無視した。
そして、その結末は、預言者さえも殺してしまう事。
大衆のパワー、力。でもその神の言葉を退けた人達の
結末がちゃんと書かれています。
神の言葉=トラーから離れたら危ない!と警告され、
それを、無視する大衆の事が預言書にクリアーに書かれている
のです。
神の言葉を、聖書の三分の2を、律法と誤訳されるのを
真実なのだと、真に受けて来たからです。
律法などと言う言葉は、ヘブライ語聖書の中では、
”神の言葉”を指しては、只の一度も使われていないのに、
その律法と言う言葉で、神の言葉の事実が、塗り替えられ、
全部実態が台無しになる。
やめなくてはならない、ミス翻訳。
”誤訳”=神の実態に対する偽証宣言。
人間の書でも、著者が書いてない”ミスプリント”は
ちゃんと訂正されるでしょう。それを神の言葉に対して
しなくてはならないのです。
日本のお正月でさえ、”律法”的な日である〜なんて思う人
1人も居ないと思います。
続く
地の塩 神の唯一不変の契約を保存する人達
世の光 神の命はここにある!と灯台の様に
暗い世界で光り輝く神の子らの役割
シャバットは家族のもの 皆と一体向合う
喜びが溢れ出る源 それが神のデザインだから