人間が造ったものではない アバ父オリジナル イエシュアの足跡を生きる | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

WWJD?と唱えるならば、その通りに実際してみないと、

スローガンばかりで、実態が何も無いと言う事です。

イエシュアが教えていない、されていない足跡を

生きる事ほど、無駄、徒労、渇く、意味無い事は無いです。

それが、宗教の世界。それが、イエシュアが戒めていた、

人間が神の言葉に余計な教えを付け足して、人にそれを

生きる事を、強要していた”当時のズレた”教えに対する

警告です。

トラーをイエシュアが否定していたなんて誤解しては

ならないのです。

いつの時も、神の警告は”神の言葉”を薄める、変形させる

人造の教えを付けたしたり、神の言葉を排除するその事へ

対しての警告なのです。

 

生きる事はキリストとあるのは、生きる事=イエシュア=

その実態はトラ−の中に書かれているのです。

 

聖書の最初の三分の2は律法=古い廃れた教えで、最後の

三分の1は新しい契約などと、聖書の事実と異なる、

人間の作り出した教えを信じ込めば、迷路に突入です。

エハッドである神=時代ごとに変化し、別の教えが

出て来たなどと言うのは、聖書の神の言葉の事実とは

全く反する教えです。

だれがその教えを作り出したのか、ちゃんと歴史の中に

証拠事実があります。人間です。ローマ皇帝です。

 

別々の2つの教えがあると勘違いしていれば、絶対に

見えない神の世界があるのです。

2つの別の教えと言う、4世紀に人間が創作した教えを、

ハメッツ=パン種=つまずきの岩をまず取りのけない事には

真実の人生へのスタートが、完了の業で今を生きれる人生に

切り替える事が、決して始まらないのです。

 

神の言葉=約束は途中でレベルや性質が変化するもので

あるのだなどと、聖書の中に書かれていない事を、

絶対個人個人が確認する必要があるのです。

偽の都市伝説に聞き入れば、おしまい。その先は、

行き止まりだからです。その先にあるのは、神の言葉を

薄めて変形させた、宗教=人間の教えの世界、縛られる世界が

待っています。

”あなたがたは真理を知り、真理はあなた方を自由にする”

不真実、不真理は、人を自由にしない、縛り付けるのです。

 

でも、神の言葉を変えなければ、どんどんどんどん扉が

永遠に開いて、神の実態の内側を体験する事に

入って行けるのです。家庭に居乍ら、自分の置かれた場所に居乍ら、エデンを体験出来る。

 

律法=古い廃れたレベル低い教えと勘違いしている。

トラー=イエシュアそのものなのだと言う、ぶれない

事実を発見して初めて、聖書に書いてある”本物のイエシュア像”

イエシュアの顔=実態に出会えるのです。

別のイエシュア像、別の人相のイエシュアを私はずっと

聞き続けていたから、よく分かるのです。その違いが。。。。

声の内容、色もトーンも音声も音量も話しかけられ方も

全く違う、永遠不変の愛、憐れみに満ちたアバ父の声。

 

イエシュアも地上に居られた時、弟子達や、弟子達の家族と

仲間と”シャバット”を楽しく過ごしたのです。

神の中で、神の前に出て、自分と、家族と、仲間が親しく

結び合い、再会し、祝福、修復、回復、確認する日。

忙しい世の中、特別な日に時を設ける意味の深さ。

 

もちろん、楽しく、喜びを持って、誰もが待ち望む日です。

これは、どこの国の人でも分かると思います。

誰もが楽しみにする、記念日、皆が同じ意識を向けて、

その日がどんな意味を持つのか、考え、体験する。

日本のお正月などの様に、皆が同じ意識で、同じ時を過ごす。

家族親戚、友人と集る、一緒に過ごす、出会う。

 

それと同じく、イスラエルの神の子らが、神に言われた日に、

<人間が勝手に決めた日ではなくて、

主の日=世界共通同一の日に>

皆同じ時に、同じ意識で王の王、主の主の御前に出る、集い、

祝福しあう。麗しい時なのです。

これこそが、一つ家族、隔ての壁を取り除いた実態で

ある事が聖書に書かれているのです。逆をしているのです。

様々な分裂は、神の言葉から反れてそれぞれが勝手な教えを

編み出し、それに歩む事を続けている結果なのです。

神の家の修復の業に参加するのか、しないのか?

自分は一体、何を根拠に信じて、何を生きて居るのか?

神の言葉?それとも人の教え?

 

そんな嬉しい、楽しい、麗しい日を、律法律法と、世界は

言い続ける。シャバットの意味を知らないから、

大声で、”それは終った律法の教え”と宣言し、

神の言葉=神のデザインの実態を否定する、退ける。

気がつけば涙涙の実態、現状。

神を誤解させる声、言葉の連続。

 

預言者の声を退けた=預言=トラーの中身そのものを

伝えた預言者の警告を大衆は無視した。

そして、その結末は、預言者さえも殺してしまう事。

大衆のパワー、力。でもその神の言葉を退けた人達の

結末がちゃんと書かれています。

神の言葉=トラーから離れたら危ない!と警告され、

それを、無視する大衆の事が預言書にクリアーに書かれている

のです。

 

神の言葉を、聖書の三分の2を、律法と誤訳されるのを

真実なのだと、真に受けて来たからです。

律法などと言う言葉は、ヘブライ語聖書の中では、

”神の言葉”を指しては、只の一度も使われていないのに、

その律法と言う言葉で、神の言葉の事実が、塗り替えられ、

全部実態が台無しになる。

やめなくてはならない、ミス翻訳。

”誤訳”=神の実態に対する偽証宣言。

人間の書でも、著者が書いてない”ミスプリント”は

ちゃんと訂正されるでしょう。それを神の言葉に対して

しなくてはならないのです。

日本のお正月でさえ、”律法”的な日である〜なんて思う人

1人も居ないと思います。

 

続く

 

 

地の塩 神の唯一不変の契約を保存する人達

世の光 神の命はここにある!と灯台の様に

暗い世界で光り輝く神の子らの役割

 

 

シャバットは家族のもの 皆と一体向合う

喜びが溢れ出る源 それが神のデザインだから