何を根拠に見分けるのか? 永遠不変の神の言葉に基づいて | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

ヨハネ7章37−38節で、”仮庵”の時に、イエシュア御自身が、

”救い主”宣言をした下りがあります。

 

”神の定めの時”=モアデイムに、”神”現れるの場面です。

この事実に注目して行くと、神は、レビ記23章に記載されて

いる、”主の日”にとても重要な事をされている事を発見します。

これを、トラーを知る、ヘブライ人が読んだら、

様々な事が見えて来るのです。

 

ラビ達が、もし福音書から、黙示録までを読んでみさえすれば、

ただただ読みさえすれば、福音書から黙示録の中身が丸ごと100%トラーが書かれている事に気がついてしまうそうです。

 

それは、そうでしょう。福音書から黙示録まで全て、

トラーの中身以外他の何も変わった教えなど、

書かれていないからです。100%ピュアにトラーそのもの。

ここが、人造神学の幕で覆ってしまっている事実なのです。

 

福音書から黙示録までを、そのまま読めば、

イエシュアが、トラー、預言書、諸書に書かれている、

救い主だと分かってしまうのです。

 

いつかの機会に、別の記事で、イエシュアに出会ってしまった

ラビ達や、ユダヤ人のシリーズを書いてみたいですが、

本当にそれは、顕著に分かります。

彼らが、西洋宗教の教えをどう捉えて、反応しているのか、

よく分かります。

彼らが、地上に2000年前に来られたイエシュアが、

トラー、預言書、諸書にある”救い主”だと認識出来ないのは、

様々な理由がありますが、一番大きな”つまずきの石”は、

人間の神学により、トラー、預言書、諸書を、

塗り替えられて語られている、宗教の語る、”救い主像”が

原因なのです。

だから、彼らは、クリスチャンが赤と言えば、青。

黒と言えば白と全部拒絶します。

とにかく、真実が乗っ取られて、違うものに改造して

しまったと、とことん拒否感、嫌悪感を示しているからです。

無理ないのです。

 

何故なら、イスラエルは、”神のトラー”=契約をそのまま

保存して、世界へ伝える役割を、イスラエルは神から、

与えられているからです。

変えられた神の言葉なんて、そんな恐ろしい事、神の前には

有り得ないと知っているからです。

 

トラーを、言葉や、契約、約束とを、途中で変えたイスラエルの神なんて、聖書に基づき、嘘だと分かるからです。

永遠不変のイスラエルの神なのに、途中で七変化、

イスラエルを捨て、異邦人に契約を渡し、乗り換えたなんて

そんな教えは、聖書に書いてないから、その教えに対して

拒絶しているのです。

イエシュアを拒絶しているのではないのです。

 

以前ヨハネ7章、8章を、長年、何度も何度も繰り返し読んで

いたはずなのに、仮庵の祭りの意味や、神の定めの日の意味や、

祭りの意味や、シャバットの意味など、自分には何も響かない、

どんなに深い意味があって書かれているのかも分からず、

素通り読み。。。全く分かりませんでした。

 

又実際に、神の祭りやシャバットを祝った経験も、只の一度も、

何も無かったので、その主の日=在りてあるお方の記念日の、

中身、意味、詳細、祝いの実際が分からなかったのです。

 

例えば、王様の家のバンクエット=祝宴の数々に出席した人なら

その意味や、儀式や、祝いの内容が分かるけれど、

そんな祝の席に集った事の無い、一般人には分からないと言う

そう言う事と同じです。

 

一年に渡る、神の命のサイクル、イスラエルの神には、

神の造られた特別な暦があるのだと言う事さえ

知りませんでした。

人がそれに沿って生きる様に造られている事が、

ちゃんと聖書の初めに書かれているのに。分からない。

何も見えない、ピンと来ない。響かない。

何故か。オリジナル聖書に書かれている事を、

そのまま知っている人達が、誰も回りに居なかったからです。

捨て去った神の言葉、その神の言葉を捨て去ると言う

行為の代償は実に重たい、大きい。

 

知恵=トラーを捨てたら、迷い出るとちゃんと

書いてある通り。神の知恵=トラーは誠に賢い生き方。

神の言われる言葉は、堅固なやぐら、安全に守られる。

 

もう終った古い教えは、後ろに置き去りにして、捨てて、

2000年以降<正確には4世紀以降>新しく出て来た、

様々な教え<それは人間の教えだと後から気がついたのですが>をするのが、御心なのだ〜などと、世界中に根強く、がっちり

浸透する只の人造の都市伝説をそのまま鵜呑みにして来た

わたくしは、勝手な自分教を、それこそ、動機と熱意は純粋そのもの、まっしぐらに生きていました。

 

しかも、福音書から、黙示録が、どこも変形しないトラー

そのまま丸ごとなのに、全く違う新しい別の教えだと信じ込み、目の前に書かれていても、書いてある通りに、

全然読み取れない、不思議を増々思うのです。

すごい不思議。でも不思議ではないのです。

人は、神の目から見る事とは違う事を教えられたら、

たとえ目の前に書かれていても、たとえ今、ここに、

目の前に、イエシュアが、パウロが現れ出て来て、

説明してくれたとしても、耳も目も塞がれて、

聞けない、理解出来ないと言う事なのです。

 

トラー=文字で書かれたトラー=肉体を取って来られたトラー

=イエシュアを信じられないのなら、何を言っても無理と、

聖書の中に書いてある通りなのです。

ちゃんと書いてあります。

 

 

続く