エペソの5章の箇所に、何と書かれているか見ただけで
変だと分かる事があります。
2000年以降,いやイエシュアが昇天された後に初めて、
使徒2章の”シャヴオートの祭り”で、教会=カハール=
エクレシアなるものが出現したと言う神学、教えは、
聖書に基づき真実ではない事は明らかです。
イエシュア昇天後に、初めてカハールなるもの<翻訳では教会と訳されている>が出現したら、
一体ここで書かれている、キリストは”カハール、エクレシア”のために命を捨てたと言う事が、どう言う意味になってしまう
のでしょう?イエシュアが木にかけられて、命を捨てた時点では、使徒2章のシャヴオートではなく、その時は、”過ぎ越”の祭りの時なのです。
2000年前の、過ぎ越の祭りの時点で、存在しないカハールのために、その時キリストは命を捨てましたとは聖書の中に
書いてない。
既に、カハールが永遠から存在していた事実を元に聖書は
書かれているのです。
その始め、起源は、”永遠の中から”語られているからです。
永遠の中、まず始めに神の中に造られた人達=カハールのために、永遠の中から完了の業も在った、
この世界を造られた時、”第七日目”まで、その時点で、
全ての業が完了と書いてある。全て。全てが造られていた。
付けたし、削除無し。完了。
そして、歴史上のある時点で、完了の業を地上でも、
見せて下さったのです。
神の言葉だけに戻れば、何と聖書に書かれているのか
誰でも読み取れる、理解出来ると思います。
以前は、間違った読み込みしても、何も疑問にも思わないまま、
そのまま教えられた通りに、歴史線上に、人間哲学分断思考の
まま、神の言葉を眺めていました。
神の業や、約束が変わったと言う教えを元に聖書を読んでいた
から、見えない事だらけ、盲点だらけ。
真実の点と点が繋がって行かない。
ヘブライ思考、聖書思考で神の言葉を読めば、
何が人造神学の盲点なのか、気がついて見えて来る。
永遠から語られている、ヘブライ思索で語られている、
神の言葉を、分断思考で読み、考えるから、
神の言葉の真実とはズレる。
神の言葉の事実とは辻褄合わなくなる。
辻褄合わなくなるから、又人間の教えの解説が造り出され、
ずっとその繰り返しが続く。
存在しない教会なる、”カハール”のために、イエシュアが木にかけられて、命を捨てたのか?一体誰の為?と、
その2000年前の昇天以降と以前とを分ける、
ギリシャローマ人間哲学思想=人造神学を疑問に思い、考えれば、辻褄が合わない事に気がつける。
聖書に戻り、調べて、考えれば何が書かれているのか
誰でも理解出来るのです。先入観無い人が読めば、聖書が
見えるのです。
イエシュアが昇天した後、初めてカハールが出現したのだ、
初めて聖霊が人の中に住われたと言う教えが、聖書とは違う事は
明らかな事実。
プラス、レベルアップ、最強、マックス度合いの違う、
パワーの違う、別の聖霊が下って来たとか、
どこまでも人間の教えは、神のトラー=的を外れて
展開して行く。
神は、どんな形でも、地上に於いても、
自由自在に現れる事が出来る。神だからです。人間ではないから。
歴史の中に神の時の中で、特別な事を世界に示しても、
それは、神の業が変化したり、人間が進化、変化したり
するのではない。
しかも、人間は2000年前も2000年以降も、
なんら変わらない、同じ人間である事は普通に理解出来る。
どの時代に生まれようと、どの国に生まれようとも、
どんな人種に生まれようとも、男性でも女性でも関係ない。
人間は同じ。同じ要素、神のエッセンスで造られている。
ニーズも同じ。神に繋がって生きる様に始めから造られている。
それなのに、2000年前まで同じ人間なのに、
神のトラーは、神のデザイン、永遠不変、神の愛そのもの、
保護ガードそのものなのに、
それを律法と呼ぶ。しかも本当の意味=ヘブライ語では、神の言葉を指して、律法などと言う、そんな言葉で書かれてない。
もし、神の言葉=トラーを律法と言うなら、福音書から黙示録も全部律法になってしまうのです。
2000年以前の人間は、呪いの下に人は在ったのだと解説し、
神の救いは、2000年前の人達には与えられておらず、
恵みや約束は、お預け状態で保留されていて、
古代の人達は、闇の中、神に捨て置かれたとする教えなら、
そんな神は、オリジナル聖書=ヘブライ聖書に書かれている、
イスラエルの神とは、全く、別もの、違う神像である事は、
聖書だけに戻れば、翻訳だけ読んでも分かるはずなのです。
神は、どの時代、どんな時にも、誰にでも、同じ様に、神は人の中に共に住んで、慰めを与え、助けの手を常に差し出して下さる方である事が、聖書に書かれている。永遠に変わらないお方。
約束、契約を破らない信頼出来るお方だから。
永遠不変の同じ神=トラー、預言書、諸書の中の至る所に書かれている事実なのです。
人間は永遠の中、神の中に、一つ家族”として造られたのです。
だから、”一体”とずっと書かれている。体の例えで、
各器官に例えて、パウロが書いている。
一体である、神が内側に住われている事実が、
ずっと聖書に書かれているのに、神の業を、
神の顔色を、神の約束、契約を時代により分ける教え。
怒りの神、愛の神。呪いの時代、恵みの時代。
神の言葉とは違う、人が造り出した教え=神学の影響を
受けているからです。
分別思考、人間が人間を、人間の考えにより仕分けられない。
同じ神によりデザインされ、永遠の中に一つ家族として
造られた事実があるから。
続く