エペソ5章 存在しない教会のために命を捨てたの? | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

エペソの5章の箇所に、何と書かれているか見ただけで

変だと分かる事があります。

2000年以降,いやイエシュアが昇天された後に初めて、

使徒2章の”シャヴオートの祭り”で、教会=カハール=

エクレシアなるものが出現したと言う神学、教えは、

聖書に基づき真実ではない事は明らかです。

 

イエシュア昇天後に、初めてカハールなるもの<翻訳では教会と訳されている>が出現したら、

一体ここで書かれている、キリストは”カハール、エクレシア”のために命を捨てたと言う事が、どう言う意味になってしまう

のでしょう?イエシュアが木にかけられて、命を捨てた時点では、使徒2章のシャヴオートではなく、その時は、”過ぎ越”の祭りの時なのです。

 

2000年前の、過ぎ越の祭りの時点で、存在しないカハールのために、その時キリストは命を捨てましたとは聖書の中に

書いてない。

既に、カハールが永遠から存在していた事実を元に聖書は

書かれているのです。

 

その始め、起源は、”永遠の中から”語られているからです。

永遠の中、まず始めに神の中に造られた人達=カハールのために、永遠の中から完了の業も在った、

この世界を造られた時、”第七日目”まで、その時点で、

全ての業が完了と書いてある。全て。全てが造られていた。

付けたし、削除無し。完了。

 

そして、歴史上のある時点で、完了の業を地上でも、

見せて下さったのです。

 

神の言葉だけに戻れば、何と聖書に書かれているのか

誰でも読み取れる、理解出来ると思います。

 

以前は、間違った読み込みしても、何も疑問にも思わないまま、

そのまま教えられた通りに、歴史線上に、人間哲学分断思考の

まま、神の言葉を眺めていました。

神の業や、約束が変わったと言う教えを元に聖書を読んでいた

から、見えない事だらけ、盲点だらけ。

真実の点と点が繋がって行かない。

ヘブライ思考、聖書思考で神の言葉を読めば、

何が人造神学の盲点なのか、気がついて見えて来る。

 

永遠から語られている、ヘブライ思索で語られている、

神の言葉を、分断思考で読み、考えるから、

神の言葉の真実とはズレる。

神の言葉の事実とは辻褄合わなくなる。

辻褄合わなくなるから、又人間の教えの解説が造り出され、

ずっとその繰り返しが続く。

 

存在しない教会なる、”カハール”のために、イエシュアが木にかけられて、命を捨てたのか?一体誰の為?と、

その2000年前の昇天以降と以前とを分ける、

ギリシャローマ人間哲学思想=人造神学を疑問に思い、考えれば、辻褄が合わない事に気がつける。

聖書に戻り、調べて、考えれば何が書かれているのか

誰でも理解出来るのです。先入観無い人が読めば、聖書が

見えるのです。

 

イエシュアが昇天した後、初めてカハールが出現したのだ、

初めて聖霊が人の中に住われたと言う教えが、聖書とは違う事は

明らかな事実。

プラス、レベルアップ、最強、マックス度合いの違う、

パワーの違う、別の聖霊が下って来たとか、

どこまでも人間の教えは、神のトラー=的を外れて

展開して行く。

 

神は、どんな形でも、地上に於いても、

自由自在に現れる事が出来る。神だからです。人間ではないから。

歴史の中に神の時の中で、特別な事を世界に示しても、

それは、神の業が変化したり、人間が進化、変化したり

するのではない。

 

しかも、人間は2000年前も2000年以降も、

なんら変わらない、同じ人間である事は普通に理解出来る。

どの時代に生まれようと、どの国に生まれようとも、

どんな人種に生まれようとも、男性でも女性でも関係ない。

人間は同じ。同じ要素、神のエッセンスで造られている。

ニーズも同じ。神に繋がって生きる様に始めから造られている。

 

それなのに、2000年前まで同じ人間なのに、

神のトラーは、神のデザイン、永遠不変、神の愛そのもの、

保護ガードそのものなのに、

それを律法と呼ぶ。しかも本当の意味=ヘブライ語では、神の言葉を指して、律法などと言う、そんな言葉で書かれてない。

 

もし、神の言葉=トラーを律法と言うなら、福音書から黙示録も全部律法になってしまうのです。

2000年以前の人間は、呪いの下に人は在ったのだと解説し、

神の救いは、2000年前の人達には与えられておらず、

恵みや約束は、お預け状態で保留されていて、

古代の人達は、闇の中、神に捨て置かれたとする教えなら、

そんな神は、オリジナル聖書=ヘブライ聖書に書かれている、

イスラエルの神とは、全く、別もの、違う神像である事は、

聖書だけに戻れば、翻訳だけ読んでも分かるはずなのです。

 

神は、どの時代、どんな時にも、誰にでも、同じ様に、神は人の中に共に住んで、慰めを与え、助けの手を常に差し出して下さる方である事が、聖書に書かれている。永遠に変わらないお方。

約束、契約を破らない信頼出来るお方だから。

 

永遠不変の同じ神=トラー、預言書、諸書の中の至る所に書かれている事実なのです。

 

人間は永遠の中、神の中に、一つ家族”として造られたのです。

だから、”一体”とずっと書かれている。体の例えで、

各器官に例えて、パウロが書いている。

 

一体である、神が内側に住われている事実が、

ずっと聖書に書かれているのに、神の業を、

神の顔色を、神の約束、契約を時代により分ける教え。

怒りの神、愛の神。呪いの時代、恵みの時代。

 

神の言葉とは違う、人が造り出した教え=神学の影響を

受けているからです。

分別思考、人間が人間を、人間の考えにより仕分けられない。

同じ神によりデザインされ、永遠の中に一つ家族として

造られた事実があるから。

 

続く