聖書はヘブライ語で書かれています。
最後の三分の1はギリシャ語でしか、現在の所文書が見つかって
いないのですが、聖書の記者は、ルカを除いて全て
”ヘブライ人”です。
死海文書の様に、どこからか、ヘブライ語で書かれた、
福音書から黙示録までの文献が見つからないとも限らない。
福音書から黙示録まで書いた、著者の思索、
原語は”ヘブライ的思考、ヘブライ的ルーツ。
聖書の元の全ては“ヘブライ思想のヘブライ語”なのです。
例え、聖書の最後の三分の1がギリシャ語で、
書かれていようとも、その中身は完全にヘブライ的世界の思索、原語、思想なのです。
俳句が英語に訳されても、中身は生粋の”日本人魂そのもの”と
言う事と同じです。文化、心情、生き様、思考回路が、
ウエスタン、西洋ではない。日本。丸ごと日本人。
聖書の中は、ヘブライの世界だけではなく、古代当時の
ヘブライ近隣諸国の異教の神々の中にあった文化や、
その言葉などもそっくりそのまま用いて書いてあります。
だから、創世記の最初の冒頭には、”エロヒーム”と言う、
どの神々に対しても使われる神々。
”エロヒーム”と言う言葉で、イスラエルの神の事が、
創世記の最初を書出されて、紹介されているのです。
イスラエルの神だけを指して使う、イスラエルの神自身の御名は
創世記2章以降に出て来ますが、創世記の冒頭の最初は、
イスラエルの神の名は、ジェネリックネームで登場しています。
例えば、よく聞く”偶像礼拝”と言う言葉。
これは、偶像は、何か別ものの銅像やら、
位牌やら、物を拝むと言う事をまず想像すると思います。
偶像礼拝=異教の神々の世界では、人間と同じ形か
動物の形を造ってその像を拝みますから、
それを偶像礼拝と言いますね。
自分の信じている信条を、目に見える形で造った=
偶像だからです。
自分の信条の某かを現しているもの=偶像です。
それがお金が偶像だったり、名誉や地位が偶像と言う事も
言われたりします。
でも、もっと掘り下げて、聖書に書かれている”偶像礼拝の根”は
一体どの様な性質のものなのか?と言う事なのです。
その大元、コンセプトは何なのか?
そして、”聖なるもの”と言う言葉、”カドーシュ”と言う言葉も、
これは、異教の神々の神殿祭司達から、取られた言葉なのです。
聖なる=カドーシュとは、町が囲みの中にあって、
異教の神々の神殿の中に仕える役割の祭司達を、
指して使われた言葉です。
詰まり、彼らは”異教の偶像の神々に仕えるために、
その特別なミッションを遂行する目的に取り分けられた人達、
異教の神々の神殿と言う特別に分けられた場所で仕える人達=カドーシュ=祭司”と言う意味なのです。
これは、イスラエルの神に仕える祭司と言う言葉を、異教の神々の宮に仕える祭司達と言う言葉を、そのまま借用しているのです。それが”聖別”の本当の元の意味です。
イスラエルが代表として、世界の中で、只一つの”特別な国民”
として取り分けられた理由が分かります。
イスラエルの神の家の子ら、神のデザインした人間の姿を
丸ごと生きて現す代表、1大チームのキャプテン。
1大家族の長男として。その目的、役割のために取り分けられた
国民とされたのは、その様な意味があるのです。
異教の神々に仕える生き方をする人達とは、”だんトツに違う、
生活スタイル、衣食住の全て、社会生活の全て、神御自身が、
デザインして指定した特別な日を、特別な意味、テーマで祝う。
神の指定した神のデザインした人間の姿を生きる”=聖別です。
それが、トラーの中に書かれている、”イスラエルの神の子ら”=
人間の本当の姿なのです。
異教の神々を信じる異邦人とは、全く違う、だんトツに違う、
ライフスタイル。
際立って目立つ様々なイスラエルの神の子らの印を、
生活の細部全ての中に於いて生きる様に、与えられている。
神に属する人の生き様と、そうでは無い人達の生き様を
はっきりと、区別するためです。
道しるべ=世の光。そしてまことの命を保存する=契約=
神の言葉を保存して生きる=地の塩とはその様な意味で
書かれているのです。
そして、異邦人たりとて、一旦イスラエルの神の家の子にされたのなら、同じ印が神から与えられて、付けられるているのです。
結婚指輪、婚家の名字と同じです。神の名=神の実態=印で
現している、生きて現す神の家の子らの実態。
誰に属しているのか?誰に繋がっているのか?
それがトラーの中身です。
同じ木に接ぎ木された。同じ囲いの中に入れられた羊。
1つだけの羊の囲い=1つだけの羊の門=一つ=一
方から入る門。イエシュア=羊の門=イエシュア=
肉体を取って来られたトラー。
イスラエルと同等の権利を与えられた同じ神の家の子ら。
それがトラーに書かれている内容なのです。
神のデザインされた本当の人間の生き方を生きる意味が
分って来れば、神の言われる言葉を捨てる、教えを退ける事は、
ズレてしまう、危ない、神の知恵を捨てる事は愚かである、
違和感がある事だと気がつく事が出来るのです。
聖書に書かれている”罪”とは、神の言葉、仰せから
外れる事。的を外す事。神の言葉=仰せの全ては
トラーなのです。
続く