封印されている歴史の史実を辿る 1世紀のイエシュアの信者達 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

1世紀に存在していたイエシュアのフォロワー達は

一体どんな事を信じて、どの様に生きていたのでしょうか?

 

彼らは”トラー”にしっかり根付いた信仰を継続して

保っていたのです。

 

ヘブライ的トラーのルーツにしっかり根付いていた。

イエシュアの昇天前と昇天後と、何か付け足された教えも、

新しい儀式も何も無い。

別もの教えが出現した形跡は、聖書の中のどこにも書いて

無いのです。

 

詰まり、創世記からマラキまでの中身に書かれた事を、

イエシュアの死を通して、昇天を通して、トラー丸ごと生きた

イエシュアの生き様を通して、その事実を見聞きし、体験し、

もっと深く、実態を持って理解し始めたと言う事でも

あるのでしょう。

 

そうすると、1世紀の信者達は、現代の教え=トラーは終わり、

新しい教え、契約となったと言う教えとは、まるで違う教えを

土台に、信仰を置いていた事実が浮き彫りになります。

 

イエシュアは、一体何と言われたのか見てみるのです。

 

マタイ5:17 

わたしがトラーや預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。

5:18 よく言っておく。天地が滅び行くまでは、トラーの一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。

 

廃する 破棄する=実態とは違う事を伝える。

成就=正しくトラーの実態を生きて現し伝える事。

 

1世紀のイエシュアを信じる人達は、預言者達、使徒、パウロ、イエシュアと同じ様にトラーの中身をそっくりそのまま

生きていたのです。

 

マタイ24:24に預言されている通り、70年に神殿が崩壊されるまで、何も変わらずにイエシュアを信じる人達は、エルサレムの

神殿でコバーンを捧げていた事実が書かれています。

 

パウロも、神殿でコバーンを捧げ、ナジル人の誓いをしていた

事が、使徒21章に書かれています。

 

その事実が何であるのか?どんな意味なのか?と

言う事を考えてみたら分かります。

パウロが、イエシュア昇天後も、イエシュアを信じた後も、

何も変わらずに、当然の事を当然にして生きていた。

神殿に詣でて、ナジル人の誓いをするために、コバーンを捧げていた事実を無視しなければ、事実が見えて来ます。

 

現在神殿がエルサレムに無い。

その理由で、神殿の中での様々な儀式、

行事を行なう事が出来ないだけであり、

再び神殿が建てられる日が来て、主が統治し世界が誰も主を知ろうと、互いに言い合わなくてもすむ日が来たら、その時は、

世界が祭りの時にこのエルサレムの神殿に上って、祭りをし、

神殿でコバーンを捧げる日が来る事が、はっきりと

聖書の中で預言されています。

ゼカリヤ14章16−20

 

神殿での儀式は”罪の仮の許しのため”ではないからです。

前提が違うと違う教えが生まれて来てしまう事は否めない。

 

神殿とは何か?と言うコンセプトから、知らなければ

ならない事が分かって来ます。

ハ バイト=神の家です。

神の臨在がある、神と人との住う家、天にある神の家

の地上で現された形。影と本体の関係です。

目で見えない天の現実が地で形として現されたもの。

その中に集う人、1人1人は神の家=宮。

その宮の中は、神の言われた通りのものだけで

満たされるのです。

 

それが、分かると、トラーに書かれている事を無視する事は、

神の宮=自分自身を、神の宮に相応しくない状態に=タメー

=汚す事だと分かって来ます。

罪とは実は、大小重さは異なれど、的外れ=トラー=神の言葉を無視する、外すして生きる事であると、聖書に書かれています。

 

1世紀の、イエシュアのフォロワー達は、

シャバットを週の第七日目に同じ様にガードし、

家族に男の子どもが生まれれば割礼を授け、

1年に渡る例祭をガードし、

トラーの中身そっくりそのままを信じて、生きていた事実。

 

トラーは、神のデザインした人間の生きる姿、

そのものだからです。神が定義する、神がデザインして造られた人間の生き様は、トラー以外の、どこにも

書かれていないからです。

 

誰も別の教えを、教えたり、別の宗教の教えを生きたり

していなかった事実がある。

 

この事実に着目すると、どこでどう変化してしまったのか?と

言う原因を突き止める必要が在る事が、分かって来るのです。

探偵心働かせて。聖書の中に書かれた事実のみ!その真実の点と点だけを繋げて行けば、真相が見えて来るのです。

 

パウロが忠告している様に、別の福音に走ると言う意味は

何か?

神の言葉ではない教え、誰かが神の言葉、神の教えを変えた、

誰かが神の言葉を捨てた、切り捨てた、誰かが、神の言葉に付け足しし、誰かが創作した教えを神の言葉と混ぜて、それを

世界に浸透させて、人々にあたかも神の言葉であると

信じ込まされた事実があるのです。

 

西洋宗教史の歴史の中の、奥の間に意図的に隠されて、

語られ無い、人目にさらされず、封印されて知られない

汚点が数々あるのです。

意図的に封印されて、語られない事実がある。

ユダヤ人は知っているけれど、異邦人は知らない事実がある。

 

現代では、同じイエシュアのフォロワーの間では、

トラーは律法主義だから悪いものと言う、トラーと

聞いただけで負の条件反射をするほどの刷り込み度。

トラー=永遠不変の神の言葉、契約、約束なのに。

そしてトラーの中身の殆どを、その真意、

意図も学ぶ機会が殆ど無いのです。

 

続く