誰かの教え 誰かのスローガン 誰かの造り出したムーブメントではなく | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

神の言葉、契約は1つ。永遠不変です。

家族は12部族あれど、一つ。その中には、異邦人も

混じっているのです。1つの大家族=それが人間なのです。

それが、最後に一つにされる。元の姿に戻る事が福音の

全てなのです。エデンから発し、エデンに戻る。全員が。

 

今や預言や、”誓い”と誓願をたてたり、軽々しく”自分の考え”で

神から預言を預かったなどとする教えが蔓延っています。

人間の教え、考え、信条に基づいた、様々な

ムーブメントを起こして、それに賛同する人達がいる。

でも、その出所は神ではない。

イエスの御名を唱えても、神主催ではなければ、

それは、神に属する霊ではない。

勝手な思いつきで、神の御名を使いあらゆる事をしているだけ。

 

軽々しく神の言葉を変形させても良いと思う意識。

これらの教えの元は、”免罪符”的信仰です。

何をしても許されるからいいのさと言う、

屯でもなくズレた思考。

あなたは罪人だから仕様がないと言う教えも同じです。

言い訳たくさんだから。

神の似姿の人ではない事をしている。

いや神の似姿の人などと信じてないから、ズレた事しても

当然、罪人だから仕方ないのだよと信じ込ませる、

思わせる教え。全く逆効果な言い訳、教えなのです。

 

神の言葉の信憑性、重さを全く無視して、軽々しく

主の御名を唱える。主の御名=主の実態=言葉を軽々しく

取り扱っている証拠です。

 

だから、平気で永遠不変の神の言葉に付けたし、削除をする様な

教えを作って、それを世界へ蔓延させてしまったのです。

別の福音にそんなにも早く走るのか?パウロが居た時代でも

そうだったのですから、今やどれだけかけ離れた場所に来て、

飛び出してしまったのか、聖書に戻れば気がつけます。

 

その一方、世界的規模で、誰かのスローガンでもなく、誰かの造り出した教えでもなく、誰かの教えに基づいたムーブメントでもなく、只只創造主、神に呼び出されて、神の言葉に目覚めて行く

人達がたくさんわき起こっています。驚き桃の木、山椒の木。

 

人は神の言葉の真実の中だけに留まり、考え、生きれば

必ず生返る。芽生える。新しい人を生きる人生を開始出来る。

それが神のデザイン。荒野を見るとはっきり分かります。

渇いた地に眠る命、種。渇いた骨が生返る。

人は神の言葉、命のパンで生きる。生ける水の中に留まり

生きる様に造られているから。そこから少しでもズレたら

違和感、ひずみ、不都合が起こって来る。

 

生ける水=命のパンを求める人達は、神の真実を神のオリジナルの言葉=ヘブライ語聖書に書いてある真実を真剣に探り出している。熱望している。

真剣に、神の言葉だけを知りたいと切望し、追求し続ける人達。

本当の事が知りたいから!それに動かされて求め始める。

 

人間の造り出した、ギリシャローマ人間哲学から聖書を

斜めに見る教え。多くの神学が聖書とはズレている事に、聖書に戻れば気がつく事が出来る。

 

パウロがデスペンセーションなどと言う神学など、全く語ってない事は、オリジナル聖書に戻れば、クリアーに見えてきます。

深く深く見えて来る。嘘と真実が見分けられる様になる。

 

その神学、人造の教えは19世紀に初めて出て来た人間の教え。

その元は、その教えを唱えさせた人が、造り出した

聖書学者でも無い人に造られた聖書の出版以降、

刷り込まれ浸透した教え。調べれば色々分かって来ます。

スコッフィールド 注解書付きリファレンス聖書。

注解=自分の思いつきの考えを世界へ浸透させたい、

聖書のコンセプト、神の言葉を歪める解説、自分神学を盛り込んだ解説を聖書に入れた聖書です。

神の言葉を信じるのか?人の教えを買うのか?

いつも問われているのです。気がつけます。

人は神の言葉の真実だけに触れ続ければ、偽の顔、作り物、偽札がすぐに見分けられる様になるから。

 

色眼鏡かけ続けて全てを眺める目は、どんなにオリジナルに戻ろうと、自分の既存の思索から考えれば見えないのです。

 

パウロは、100%ピュアにトラー、永遠不変の神の言葉を語っているからです。パウロ=パリサイの中のパリサイの子。

ヘブライ人で、ガマリエルの弟子。

詰まりパウロは100%トラーを暗記しているのです。

肉の目が閉じ、目が開かれた後、パウロはトラーの真実を

人々に教えるのです。

パウロがトラーを否定して新しい宗教造ったなんて

教え信じていたら、神の永遠不変性、神の言葉が

ぶれない事実の何ひとつ、見えなくなって来るのです。

いや別世界にいざなわれてしまうのです。

 

問題の根は、トラーに書かれ居てる事が分からないと言う事

なのです。聖書に書かれている事の真意を知らないと言う事。

知らなければ、どうやって理解出来るのでしょう?と言う事は誰でも分かるのです。

霊が教える?霊は何と教えるのか?神の言葉を取りて食べよと

教えるのです。

 

パウロ、新約と名付けられてしまった三分の2を書いたのは

パウロです。そして、その中身全てはトラーの解説、

パウロの書簡の中身は、トラーの適用例です。

トラーを曲げて別の教えを解説なんて一切してなんかいないのです。神がそんな事お許しにならないからです。人間の教えと神の言葉とは全く違う事が見えて来ます。

 

そして発見して行くのです。神の真実を。

創造主を、人が何ものであるのかを、発見する。

神の真実は、神の言葉、そして神の造られた世界の中に在る。

神の言葉と、神の創造された世界は、ピッタリマッチしてるからです。世界は神の言葉により造られたからです。

目に見える形でも、私達が神の造られた世界を眺める時、

神の栄光、神の性質を表しているから分かるのです。

神の言葉は、私達に発見される事を待っている。

その中に全てが詰まっているからです。

 

申命記30:11−15