今回のシャバットでも、色々な発見をしました。
聖書、神の言葉を一つ取り出してみても、それは全部
始めの部分=トラーに、そして預言書に全部全部繋がっている
のです。全部丸ごと同じ、神の言葉は一つ。
聖書は全部トラーなのです。創世記一章から黙示録の最後まで、全く同じ内容なのです。
違うと思い込んでいるのは、聖書とは異なる、そう言う教えをする人の教えを聞き続けて来ているからです。
自分の想像のイエスさまは、実はオリジナル聖書の中に書かれているイスラエルの神とはズレた神像、実態であるかもしれないのです。
少なくとも私に関しては、以前の私の中にあったイエスさま、
イスラエルの神は、オリジナル聖書に書かれている
”イエシュア ハ マシア”とは
大分異なるお方だと発見しています。
イスラエルの神は、分断の神ではなく、エハッド=複数で
全く一つの神の性質と書かれている通りなのです。
時代ごとに業や性質を変身させて行く様な、そんな
ギリシャローマ人間哲学思考で解説される様な、
お方ではない事が確かに聖書に書かれています。
神の言葉も全く同じ。永遠から不変なのです。
神の言葉をそんなに簡単に説明するなんて、不可能だと言う事。
全部が繋がっているからです。
だから日々、神の言葉から聞き続ける、学び続ける。
点と点をずっと繋げて行くと、大きな画像が見える様に、
神の言葉は、一点ではなく全部繋がって見えて来るのです。
神の言葉は、命のパンです。
神の言葉は、人を神のデザイン通り生かすものです。
そして、命のパンを食べる理由は、只”生きるため”!
人間の造り出した宗教や、スローガンや、教えを生きる、するためではく、”命”神のデザインされた通りの命を生きる
ためなのです。
宗教の教えは、どの世界にもはびこっています。
神の言葉に人の教えを混ぜたら、全部宗教に変身して
しまうのです。そして、それはややこしく、複雑で
窮屈で、縛り付けです。解放の全く逆です。苦しくなる。
そして、”自分が何ものであるのか?”を分からせなくする
教えが宗教です。神の言葉に対しての攻撃、違うコンセプトをインプットする言葉は、ちまたに溢れています。
イスラエルの神がどんなお方かと言う事を歪める事。
そして、神の言葉の信憑性、絶対性を否定するもの
それは宗教の教えです。
人の、宗教の、神学の教えではなくて、”アバ父”私達の
造り主が、”わたしは誰か”と言う事を、はっきり語り続けて
下さっている事を、聖書の中から発見出来るのです。
本当の自分が何か、誰かが分かれば、起動修正がそこで初めて可能になるのです。
自分が誰であるのか?が分からない限り、どの自分に
シュバーするか、戻るのか分からない。
軌道修正=神のデザインの戻る事は不可能なのです。
それが、トラーに書かれているのです。
あなたは誰か?”神の似姿の人”とはっきり聖書に
書かれています。
それが分からない限り、自分は誰か?と言う、自分探し
をして、本当の自分を見つけられないまま人生終って
しまうかもしれないのです。
”そんなのい〜やだ〜!”です。
神はクリアーに、私達が”神の似姿”の人である事を
教え続けています。
あなたは神の目には尊く、ユニークで、神の作品で
素晴らしく、価値ある存在、聖なるものである。
神の目からみる、自分を知る事、それが何より大事なのです。
神の完了の業で備えて下さっている、本当の人生を
歩み出すために。
私達が苦しむのは、本当の自分で生きたいのに、
どうやってそれを生きて良いのか分からない葛藤の中に、
留まると言う事なのだと思います。
死んだ自分で、来る日も来る日も爆発し、地雷踏みながら
自分を回りを破壊しながら、生きる。こんなのいやだ〜の世界。辟易する世界。
ズレた時、本当に嫌気がさす。それが本当の自分だから
嫌気がさすのです。
本当の自分=神の似姿の自分とは違う事をしたから、
言ったから違和感感じる=それが本当の自分。
自分の性質は神の似姿だから、違う事をすれば
違和感感じる。
それは、全て決断なのです。自分でコントロール出来る。
どんな生い立ちを経ても、”ほんまもんの自分”で生きる
決断をする人は、それを得る事が出来るからです。
誰が妨害しようと、邪魔しようと生きられる世界がある。
いや、既にアバ父が完了の業で取戻して下さっている
自分を、本当に受け取り、信じて、生きる体験する世界に移行すると言う事。生きると言う世界に移行する。
神の前に不公平なんてないのです。
どんな境遇に生まれて、どんなひどい目に遭遇しても、
今自分で選択出来る。神の命を生きる、命か死を選びそれを
生きる選択が出来るのです。だから希望があるのです。
そうでなければ、不公平。希望ゼロ。人は運命と言うどうにも
ならない奴隷にならなくてはならないと言う事でしょう。
そんなの福音ではないのです。
細く聞こえる声=神の言葉がある。
あなたは”光の子” 光の子らしく歩める。
人生に起こってくる出来事は選べない。
でも、生き方を選べる。光の子として生きる選択、人生。
それを信じた人は、疑わずに信じ続け、生き続ける人は
発見する。
探しなさい、求めなさい、そうすれば発見出来ると
ある通りです。
人の教えの中で探り続けては、駄目なのです。
神の言葉の中だけに留まり、考え、生きる。
狭き門を通る。神の言葉は狭き門。
ちまたの人間の教えの中には無い教えだからです。
神の言われる通りの事を、耳を澄ませて聞き続ける。
そして、真実を発見したら、そこから生きる事、
練習する事。
妨害し続ける数々の出来事、それをすり抜ける事が出来る。
偽の教えを見分けて、神の言葉、声だけに耳を傾けて
日々、一瞬一瞬を生きる。