注意深く | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

IIコリント10:5、6 「私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごと(考え)をとりこにしてキリストに服従させ、また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。」

 

ピリピ4:8 最後に、兄弟たちよ。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい。

 4:9 あなたがたが、わたしから学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことは、これを実行しなさい。そうすれば、平和の

神があなたがたと共にいますであろう。

 

申命記6:6 きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に留め、

 6:7 努めてこれをあなたの子らに教え、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない。

 

一日中、神の言葉=トラーを、寝ても覚めても何していても

教え続けなさい。

神の言葉の中に留まり、考え、思いめぐらしなさいとは

まさにそれです。

鎧兜=サタンのささやき、破壊から自分が守られるためです。

 

それなのに、鎧兜はもう古い、終わり、破棄された

意味無い、効果無しなどと言う教えを聞いて、率先してサタンのささやきを自分の頭の中で、復唱しては、もうやられっぱなしになり続けて、一生行きます。

 

試しに今日一日中、無言の時にどの位の思索が

頭の中に行き交うか,注意を向けてみると分かると思います。

 

凄い数だそうです。一日に50000〜70000の思索を

頭の中で、考えて、思いめぐらしている。

外部から入る情報を、五感を通して内側に取入れている。

 

全ての考え、思索を”キリストイエスに在り、虜にして

いるのだろうか?と点検する。全てを。

神に属する、神の言葉、真実の囲いの中だけで

思いめぐらしているのか、それとも神の内側の外側に

飛び出た場所、意識で考えているのだろうか?

ランダム、抜き打ち検査ではなくて。

 

とにかく凄い数の事を次から次へと人は、

コンスタントに頭の中で考え続けているのです。

黙りながら、頭の中で独り言をずっとしゃべっているでしょう。

何かを常に考えている。何かを発言し続けている。

今日は寒いとか暑いとか、疲れたとか。。。

 

サタンのささやきは、その自分の中でしゃべっている

言葉の中にしっかり入って来るのです。

自分の頭の中で復唱している事が、外側にも出て行きます。

 

エペソ4章29 悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。

30 神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。

31 無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。

 

ガードが無い家は無法地帯。まさにそれです。

自分の中に、しっかりと毒を取り込み続けて行くのです。

 

だから常に思索を照らし合わせて=これが聖書の中に

書かれている祈りの意味なのです。

神の言葉の鎧兜、神の言葉、真実の中だけで思いめぐらす。

神の顔=鏡=トラーに自分の考えを照らし合わせる。

祈り=神の前に神の言葉の中で、神の言う通りを考えて

ずれていないのか?それともズレている事を考えているのか

吟味せよとある通り。守られるためです。

宗教やるために、祈ってるのではないのです。

 

神の子、光の子らしくない思いが飛び込んで来たら、

湧いて来たら、それは自分のエッセンスにマッチしていない、

自分ではないと認識して、削除、排除する。

それが板に付いて、普通に認識出来れば、

新しい自分で生きて居ることが身に付いている人は、

それらずれた思いが、余り浮かばなくなるのです。

 

例えばどんな事を言えば、思いめぐらせば、

危ないのでしょう?