IIコリント10:5、6 「私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごと(考え)をとりこにしてキリストに服従させ、また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。」
ピリピ4:8 最後に、兄弟たちよ。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい。
4:9 あなたがたが、わたしから学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことは、これを実行しなさい。そうすれば、平和の
神があなたがたと共にいますであろう。
申命記6:6 きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に留め、
6:7 努めてこれをあなたの子らに教え、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない。
一日中、神の言葉=トラーを、寝ても覚めても何していても
教え続けなさい。
神の言葉の中に留まり、考え、思いめぐらしなさいとは
まさにそれです。
鎧兜=サタンのささやき、破壊から自分が守られるためです。
それなのに、鎧兜はもう古い、終わり、破棄された
意味無い、効果無しなどと言う教えを聞いて、率先してサタンのささやきを自分の頭の中で、復唱しては、もうやられっぱなしになり続けて、一生行きます。
試しに今日一日中、無言の時にどの位の思索が
頭の中に行き交うか,注意を向けてみると分かると思います。
凄い数だそうです。一日に50000〜70000の思索を
頭の中で、考えて、思いめぐらしている。
外部から入る情報を、五感を通して内側に取入れている。
全ての考え、思索を”キリストイエスに在り、虜にして
いるのだろうか?と点検する。全てを。
神に属する、神の言葉、真実の囲いの中だけで
思いめぐらしているのか、それとも神の内側の外側に
飛び出た場所、意識で考えているのだろうか?
ランダム、抜き打ち検査ではなくて。
とにかく凄い数の事を次から次へと人は、
コンスタントに頭の中で考え続けているのです。
黙りながら、頭の中で独り言をずっとしゃべっているでしょう。
何かを常に考えている。何かを発言し続けている。
今日は寒いとか暑いとか、疲れたとか。。。
サタンのささやきは、その自分の中でしゃべっている
言葉の中にしっかり入って来るのです。
自分の頭の中で復唱している事が、外側にも出て行きます。
エペソ4章29 悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。
30 神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。
31 無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。
ガードが無い家は無法地帯。まさにそれです。
自分の中に、しっかりと毒を取り込み続けて行くのです。
だから常に思索を照らし合わせて=これが聖書の中に
書かれている祈りの意味なのです。
神の言葉の鎧兜、神の言葉、真実の中だけで思いめぐらす。
神の顔=鏡=トラーに自分の考えを照らし合わせる。
祈り=神の前に神の言葉の中で、神の言う通りを考えて
ずれていないのか?それともズレている事を考えているのか
吟味せよとある通り。守られるためです。
宗教やるために、祈ってるのではないのです。
神の子、光の子らしくない思いが飛び込んで来たら、
湧いて来たら、それは自分のエッセンスにマッチしていない、
自分ではないと認識して、削除、排除する。
それが板に付いて、普通に認識出来れば、
新しい自分で生きて居ることが身に付いている人は、
それらずれた思いが、余り浮かばなくなるのです。
例えばどんな事を言えば、思いめぐらせば、
危ないのでしょう?