新宗教の出現で、以前の慣れ親しんだ教えと融合したら | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

神のデザインされた定めの日を退けたり、

永遠不変の神の教え、言葉を終わりとして、削除するものだとしたり、又は、新しい教えに変化した、新しい契約が新たに

出現したとする教えを伝えてしまう事。

イスラエルの神の言葉の中に無い教えや、仰せ、コンセプト、

神の定めの日=祝い日=祭りなどを別ものにすり変えてしまうのは、こんな事と同じかも知れないのです。

 

ある国では、大衆に祝われている、お釈迦様。

そのお釈迦様は4月8日が誕生日。

例えばの話で、この度、とある国で新しいタイプの宗教を

国のリーダーが造り出して、それを国認定の新しい宗教と制定しました。

 

既存の宗教を信奉している、大衆市民に反感買わないために、

色々策を練る。考える。

皆に、この新しい国指定の宗教を受け入れられるためには、どうすれば良いのだろう?

 

今まで民衆に浸透している、祝い日や慣し、印やシンボル全て

この際、全部うまい具合に、新しい宗教に取入れて、融合、混ぜる。全部混ぜちゃう。仲良くしよう。同化しよう。

エキュメニカル〜。みんな仲良く全部混ぜる。

 

この宗教の大元となったその”特色”を極力排除して、大衆の皆さんに違和感を与えない。私達の国の慣しや、宗教とは全く

異物だから。

大衆の皆さんの既存の宗教に沿う、慣れ親しんだ形に

元の教えを変えましょう。

そして今度は、今までの伝統的な祝いや、教えの上に、

自分達の造った新宗教の神々の名を置いて、

慣れ親しんだその大衆の祝い日、教えを、自分達の宗教の

神の祝い日であるのだとしようではないか。

そして、4月8日が我々の神の誕生日。

 

それが4世紀に実際に起きた出来事なのです。

 

永遠不変のイスラエルの神の言葉。

永遠不変のイスラエルの神の契約。

そして、全部ヘブライ色は削ぎ落として、終ったものだとして

新しい宗教なるものを造った。人間の会議で、神の言葉が仕分けされ、決議された物。

 

イエシュアやパウロが、2000年以降新しい教えを造り出したのではない。1000000%そんな事、聖書に基づき有り得ない。

神の新しい教えが出現と言う教え=その大元、ルーツは、4世紀にローマ皇帝が造った、ローマ国教。

ローマ西洋宗教。ヘブライ色全部拒否!

ヘブライ色終わり!ヘブライ色ある神の言葉終わり!とした。

人間がそう決めた。

 

祝い日や、形態を変えた事、聖書の中にもそんな事件が

書いてあります。イスラエルの神の仰せ、言葉とは

似ている様で、本質非なる事をした、シナイ山でのアロンの金の子牛を拝む事件。

金の子牛=エジプトの慣しで、慣れ親しんだ方法で、自分達の手の業で、勝手な方法でイスラエルの神を拝み”祭り”=神の定めの日=モエッドを祝おうとやってしまった。出エジプト32章。

 

1列王記12:32にある、第七の月の15日に来る”仮庵の祭り”を次の月、第八の月の15日にすり替えてしまった事件など。

神の定めた日に祝いをし、神の指定した場所=神の家だけで、

コバーンを捧げるのに、いつでもどこでも、自分達の考えに沿って勝手に色々やり出した。

 

エゼキエル8章 イスラエルの、エルサレムの”神の家”の中に、

イスラエルの神に属さない汚れた動物、印、象徴を取り込み、

別の神々を拝んでいる幻。

 

勝手な方法で、勝手な思いで、別の祭りをした時、

その時神は、どう言ったのか。

さすが〜なかなか良い案だ。あなた方の想像、発想で自主的に

造り出したもの、私を拝む新しいものを造り出すなんて、

麗しい努力、わたしへの思い、すごいお手柄だ〜。

そんな事神が言ったのか?人の教えに、神がありがたがったのか。神が最も忌み嫌われる=姦淫の罪=別ものと混ざり合う事と言われたのです。

 

長い歴史の中で、色々造り出されて来た教えを、

聖書の事実だと、夢にもつゆにも疑わないで信じ、思い込んでいると言う事は、残念ながら実にたくさんあるのです。

只の根拠も証拠も、事実に基づかない、何もない、

都市伝説と同じ。

似て非なるものだから、見分けられないだけ。

でも聖書に戻れば分かる内容です。

調べて行くと、その事実がどんどん見えて来るのです。

 

神の言葉の事実ではない事でも、それらが神の言葉の真実なのだと世界に、伝えられてしまい、浸透してしまえば、あたかもそれが、聖書の神の言葉、神の教えであると思いこむ、信じる。

そして、次世代へ次世代へ、世界的に神の言葉ではない、不真実、変形してしまった神の言葉が伝えられてしまう。

 

聖書だけに戻り、確認して確かめれば分かる事ですが、

どうしても、伝統的に長年慣れ親しんだ、宗教文化の教えであるので、身近に感じてしまい、それらが、神の仰せや神の言葉の真実そのものだと、思い込むと言う事になってしまったと言う事なのです。

 

一旦不真実な全てをリセット。

 

人は神の真理の中だけにしか存在出来ない。

それ以外の場所に飛び出せば、渇いてしまう、死んでしまう。

人は、神の言葉の真実を知る権利がある。

人の造り出した教え=宗教の教えに覆われて、神の顔=神の実態=自分の本当の姿が、ぼやけてしまっている事に気が付けば、

本当の人生=神の与えて下さったまことの命を

今生きれる人生に切り替えられるから。

神の言葉は、全て私達が安全に守られるために、宗教の教えに縛られて、死んでしまわないためにある。