正しい情報を伝えられたとしても、脳回路が完全に洗脳されていたとしたら、伝え聞いて来た事と違う正しい情報に対して、
まずは人は、怒り、拒絶反応を示すものなのです。
それを英語では、Cognitive Disonanceと言うのです。
どう言う事なのかと言うと、
”人は、強い信念、または真実だと思い込んでいる事柄がある。
その事柄に対して、相反する事実を突きつけられてしまう場合、
それを受け入れられない、受け入れたくない。
そして、その真実=自分が信じて来た事とは別の事柄に対して、
非常に不快で、心地悪い感情を持つ。
それをコグニテイブ デイソナンスと呼ぶ。
頭脳の中で、自分の信念=本当の事実がマッチしない場合に起きるズレ、違和感。
真実にも係わらずその事に対しての拒絶反応。
既存の信条への執着心。
何故なら、自分が信じて来た”実は真実ではない事柄”に対して
それらを瞬時に、保護しなくてはと言う反応をし、
自分の信念を元に、根拠にして、新しく目の前に出現した本当は真実の事に対して、咄嗟に拒否する理由や、事柄を理由付けを見つけようと考え、そして真実なのに、自分の既存の考えとマッチしない全てを、取りあえず、拒否、否定すると言う行動に出る。
フランツ ファノンと言う人が言った解説ですが、
うまく的を得た解説だと思います。
私もイエシュアを信じた頃、こんな風に教えられて来ました。
”十字架が無い教会は異端なんだよ。”
”日曜礼拝や、クリスマスやイースターを祝わないのも異端だよ。”
これらに対する回答を、今は、聖書に基づき、真実か否かを知りました。
イスラエルでは、イエシュアを信じる人達は十字架を
掲げないし、身にもつけない。
ユダヤ人が十字架なんて見たら、即座に“迫害”と
”拷問”をイメージしてしまうのです。
クリスマスもイースターもしないで、レビ記23章の”神の定めの日”をそのまま祝っているからです。
その人達は異端なの?
いや、イエシュアや、使徒達、パウロは、
レビ記23章を祝っていたでしょう。
クリスマスや、イースターをやならないで。
イエシュア、使徒、パウロは異端??
12月は、イスラエルの国民の祭りである”マカバイ戦争”の
勝利を祝い、ハヌカを祝う。
イエシュアもこの記念日を祝っていた。
でもこれはレビ記23章の神の定めの日ではなく、
歴史の史実に基づく日に、異教の神々に抵抗して
神殿を奪い返した勝利を祝う日。
これはイスラエルの国民の祝い日です。
私もイスラエル国民ではないですが、同じイスラエルの神の子と
されたので、同じく異教の神々の教えに同化する事を抵抗して、
イスラエルの神から勝利を頂いた記念日を数年前から
祝う様になりました。とても意味深い教えと、聖書を学ぶ
良い機会になっています。
イースターはもちろん、過ぎ越をしないで、
イシュタール神の祭りの日を、過ぎ越の後の初穂を捧げる日と
取り替えたのです。元々は神の仰せでは、”過ぎ越”の中で、復活の命にされた事を祝う様に、神は定められているのです。
しかも、聖書には無い教え=別ものに変身、別の祝の日になったのは、4世紀以降。
十字架ですが、過ぎ越でイエシュアは木にかけられたのです。
ローマ最高処刑は”木”にかけるからです。
特にその木の形は、聖書に書かれていません。
そして、
別の意味があるのです。
異教の神々の”繁殖”のシンボルが十字架で、
西洋宗教はそれを取入れたと言う事です。
ローマ最高処刑の印とは、別の意味で。
クリスチャン達は、もちろんそんな意味ではなく、
十字架=イエスさまの死、復活の命の印と思って
そうしているのですが。
でも、聖書の中に”十字架”のシンボルを身に付けよと言う
仰せは書かれていなくて、逆に何を身につけよと神が言われた
ものが、ちゃんとレビ記に書かれています。
これは、神オリジナルの日々のリマインダーです。
イスラエルの神の子らが、神のデザインしたリマインダーを
付ける、家の中に置く事で、神の言葉=神の似姿にされている人達の生き様は何か?と言う事を思い出すためです。
神の仰=日々のリマンダーを身近に置く事を忘れては、神の知恵を捨てている事になるのです。
”聖書は、神の契約は2000年以降に、新しくなったんだよ。”
これが、真実ではない事が聖書に書かれています。
”2000年以降、イエシュアが日曜日に昇天されたので、
日曜日に安息日が変わったんですよ。”
古い箇所は律法だよ。”
日曜日は、4世紀に西洋宗教を造ったローマ皇帝の
信仰の祝い日だったので、その日、サンデー、太陽神の祝い日をイエシュアの昇天した日なのだと主張し、神の定めの日=シャバットを変更、取り替えただけなのに。
シャバットは第七日目と神が言われたのでしょう?
イエシュア昇天後は、週の第一日目になりましたなんて、聖書には書いてない。どうして、その神の言葉、永遠不変の事実を退け、削除し、無視して良いとするのでしょう?
よく考えたら完全に、神がしてはならないと言う事をしている。
神の言葉、真実の中だけに目を留める。
何曜日に何をしようと自由なのですが、神の定めの日とは
意味が違うのです。
続く