神の祭りには、かならず”宴会”が付き物です。
日本でも、祭りと言えば、食べる、飲む、楽しむと
言う事は付き物です。
そして、宴会は、儀式に伴う印でもあるのです。
親しい間柄の、親しい交わりの印。
それが食卓だからです。
食べて、飲んで、楽しみ喜びを体感、体験する事を
通して、神がどんなに良いお方であるのか
私達が体験するためです。
そして、準備期間があります。
この準備期間も大事な学習期間なのです。
皆で、同じ事に向かって、意識を向ける。
共同作業で、神の祭りの準備する。
その中で、神の福音の中身を体験的に生きる、
お互いに参加して、話し合う、語り合う、
考える、体験する事にもなるからです。
使徒達は、過ぎ越のラビ イエシュア=救い主の処刑、
昇天の後、イエシュアの仰せ通り、
都エルサレムに留まりこのシャヴオートに向けて、種無しパンを食べる週、初穂を捧げる=復活の命に生きる、そしてその復活の
命が実をつける、穂を数える7週を過ごしていたのです。
乳と蜜。
神の言葉を”乳”となぞらえている事から、
乳製品をシャヴオートの時には、頂きます。
天の領域がシナイ山の頂上に降りて来た。
神が共にそこに居られて、モーセが天の領域に入った。
顔と顔を合わせて、”神”に対面した!!!
そして、神の言葉=トラー=婚姻契約、神御自ら
文字で刻んだものを受け取った。
神と言う存在が、人と関係を結んでいる証拠を、
文字で表して下さった。
それまで、口頭で、代々伝授してこられた、同じ婚姻契約。
全ての人が聞いて来た。
アダムとエバから始まって、ノアも、アブラハムも
同じ”トラー”を聞いて来た。
口頭伝授されたトラーを、今”出エジプト”した後、
文字で石板に書いた、ブリット。
契約の板を受け取った、その出来事がシャヴオートの中心です。
レビ記23章15−22
この章を読むと分かります。
”神が直接、神の御口から、モーセに全てを語っている事実!”
考えてみるそれがどんな事を意味するのか。
神が直々に、神の御口から直接告げた言葉を、人はどうして、否定するのでしょう?終ったと言うのでしょう?
全人類に向けての同じ永遠不変の一つの契約なのに。
神の言葉に賞味期限があるとするのでしょう?
終った話、契約、イスラエルだけの生きる指針、
それら全部人間の勝手な仮説、神学です。
神の言葉の真実の前に人の教えは跡形もなく、消えて行く。
過ぎ去って行く。
神の言葉だけが、永遠に堅く立つと書いてある通り。
二つのパンを、今度は、パン種を入れて焼いて捧げる。
”過ぎ越”では、パン種を入れないマッツアを食べた、
そして7日の間、マッツアを食べて、”新しくされている人”
ハメッツ=罪が完全に削ぎ落とされた人にされている事実を
神は、7日間と言う最大限の完了の強調で人に教えるために
7日の間、マッツアを食べなさいとしたのです。
そして、今度は、パン種を入れた二つのパンを捧げる。
このパン種とは、”神御自身のエッセンス”です。
それらが、最上級の小麦粉の中に入れられて
二つのパンを焼く。
イスラエルと異邦人=隔ての壁なく、両方が
一つの家族とされている印でもあります。
イスラエルも異邦人無しには、シャローム、完全な姿には
なれない、異邦人もイスラエルなしには、一つ神の家族には
なれない。
神の言葉の中だけを探って行くと、人の教えがズレている事が
見えて来るのです。
イスラエルの神は、イスラエルだけに、そして異邦人には別の
教えや、契約を与えていない事がクリアーに書かれています。
そして、シナイ山で与えられた契約=ブリットは、中身は
永遠不変です。
これを、変わったとする人間の教えは、消え去らなくては
ならないのです。神の言葉の事実=永遠不変と言う事が
聖書に書かれている事と照らし合わせれば、変わった契約、
新しい教えと言う仮説は、聖書の事実では
ない事は明らかです。
この人間の仮説、都市伝説=偽物の教えを本気で信じて行けば、ズレた場所、別の門命の門=羊の門=イエシュア=生けるトラーを通り、神の中に入る関係に入れなくなるのです。
今年2017年、5月30日日没からが、シャヴオート。
過ぎ越=第一の月 ニサンの月の15日目=過ぎ越から数えての50日目の神の定めの日。
イスラエルの神には、独自の暦があるのです。
それが本当の聖書の暦なのです。そしてそれが本物の
イスラエルの神の定めの日。