ローマ西洋宗教の出現の経緯、西洋宗教史、そして、ローマ西洋宗教で造った様々な教えや、シンボルや、習慣や慣し、風習、
宗教儀式、祝い日を詳しく調べて行くと、分って来る事がたくさん出て来ます。
2000年以降新しい教え、福音が出現したのだ、新しく契約が変わったのだと、聖書の神の言葉の事実に反して思わされている
その解説、教えの出所、根拠は、実は、この西洋ローマ人造宗教から出て来た教え。そして、それを解説する人間の神学に他なりません。
イスラエルの神の言葉、イコール、西洋宗教の造り出した教えではないのです。
2世紀以降も、ローマ政府は、イスラエルの神の言葉=ヘブライ色、トラーの生き様をとにかく否定する、イスラエルの神、ヘブライ色のある独特な、聖書の生き様をする人達を、迫害する事をずっとして来たのです。
だから、70年にローマ政府の手で、エルサレムの神の家=神殿をも崩壊してしまったのです。
その当時、多くのイスラエルの神を信じる、ユダヤ人達が、迫害、殺された事を、私は知りませんでした。
イスラエルの神の言葉=トラーを否定する教え出現。
迫害と処刑と、神の言葉を抹殺する事をローマ政府は
ずっとやって来た。
イスラエルの神を信じるユダヤ人達、そして同じイスラエルの神を信じる異邦人達をユダヤ人と同等と見なして、ずっと迫害して来た。
命の危険にさらして来た。その事実があります。
その迫害に耐えられない異邦人達は、ローマ政府の太陽神信仰や、異教の神々の教えに同化しながら、トラー=聖書の教えを、
異邦人達は、捨てて行ったのです。
神が神の言葉を終らせる事なんて、絶対に無いのです。
ユダヤ人達は、異邦人の様に、イスラエルの神の言葉=トラーを
捨てなかった。でも異邦人は所詮、神の言葉の永遠の価値、重さが分からないからあっさりと別の福音に移って行った。
または、ヘブライ色ある部分を捨てて行った。
私達は、あのユダヤ人の様には、生きてません、
ユダヤ人と同じだとみなされて、迫害され、重税を負い、
または殺されないために、あの人達の信仰とは全く関係ありませんと言う表明。
そして、今の様に、ヘブライの世界の聖書にある教え、
神の言葉を生きる事が、即座に”古い” ”律法主義” ”外れている” 人間の教えを喜んで生きる事が、律法主義ではなく、
神の中にある本当の自由なのだと、思わされている根拠は
実は聖書ではなく、そう言った歴史的背景があるのです。
神の言葉=教えを生きる事が何か、下等な生き方、古い、終っている、不自由、律法主義、神の言葉を生きる事は、神の御旨に沿わない事で、人の教え=ローマ皇帝の造り出した教えを生きる事が本当の自由???
よ〜く考えると、全く矛盾した教えであるのにもかかわらず、本気でそう思い込んで信じて、それを生きている。
プラス、聖書は、変わらない、同じと言う人達も、神の言葉を
永遠不変、変化なしと、その様には、全く取り扱っていないのに、その事に気がつけない。
神の言葉=聖書の最初の三分の2、ヘブライ色ある教えを否定する教えイコール、トレンディな最新式な生き方だ、
神の仰せなのだとまで思わされている。ヘブライの聖書に対して非聖書的教え。ローマの神を信じているから?
イスラエルの神ではないのでしょうか。
その信条の根底、由来は”トラー”ヘブライの聖書、神の言葉、ヘブライ色のある一切を削除して造った、”ローマ西洋宗教”の教えが、浸透してしまった。それが聖書だと思い込んでいる。
それゆえ、トラーの教えは、律法なのだ、もう終った、神の定めの日のシャバットや、祭り、様々なヘブライ色ある神の教えが今は律法主義なので、やるべきではない、イスラエルだけへの教えだとか、それらをやったり、祝うべきではないなどという、西洋宗教の教祖様の教えを、本気で聖書の真実なのだと思い込んでいるだけだ”と言うのが真実なのです。
神の言葉より、人の教えを取っていると言う事に
気がつかないとならないのです。
トラー、世間では旧約聖書、または律法と呼ばれてしまっている部分を聞くと、即座に条件反射の様に思う=終った、古い、廃れた、2000年前に救い主が来るまでの仮の教え、律法、などなどなど。
その解説こそが、聖書的では無い事に、気がつかない。
いや、何で神の言葉が変わるの?終るの?
誰がそんな事言ったの?聖書がそう言っているのか?と
聖書に戻り確かめると、聖書=神の言葉の中に、答えはちゃんとある。
神の言葉は、永遠不変。付けたし、削除、創作=異教の神々の教えと混ぜて、ぬるくなっては駄目と書いてあるのが
答えです。
長い歴史の間、世間に浸透した、人間の言い伝えや、
教えが神の言われる事なのだと、誤解している勘違いしているだけだと言う事は、聖書の事実だけに戻ればはっきり分かります。