本当のあなたは罪人なんかではない あなたはマッツアと聖書に書いてある | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

私達は”あなたはマッツア”と神に言われているのです。

人が何と言うのかとは、全く関係の無い事なのです。

 

神の似姿に造られているのに、ズレを選択し続けて

生きて来てしまったと言い換えた方が良いです。

偽の姿を学習してしまったと言い換えた方が良い。

 

神が私達をなんと評価しているのか?

何と言われているのか?私達をどう見ているのか?

神の完了の業だけを土台に、私達が種無しパン=マッツアであると神が言われているのです。

それだけが大事な事なのです。

 

人の教えを基準にすると混乱して行きます。

自分が誰であるのか、分からなくなって行きます。

自分はまだ罪人なんだと言い続けてしまいます。

本当は違うのです。

聖書だけに戻って確認する!

パン種=ハメッツと、マッツアは別なのです。

でも、パン種はマッツアの中に取り込み続ける事は

可能なのです。だから、それをもうしない。

偽の自分で生きないと決めれば良いのです。

ずれたら直ぐ戻る!

 

それでなくても、自分が誰か?と言う事を知らないのですから。

増々混乱して行く。人の声、別の教えを聞き続ける場合は。

 

だから神の言われる言葉、声だけを聞き続けて行けば良いのです。

 

マッツア=要らないものが削ぎ落とされた人。

種無しパンです。

種=ハメッツを取り除かれている。

あなたはマッツアと聖書に書いてあるのです。

パウロが神の言葉を伝達しているのです。

使徒=神の言葉をそのまま伝える人だからです。

 

1コリント 5:7 新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パン種のない者なのだから。わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。

 

人間の目から見た解釈を入れないで、書かれている通りに

聖書=神の言葉を読まないとならないのです。

 

5:8 ゆえに、わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭をしようではないか。

 

パウロは一体なんの話をしているのでしょうか?

”過ぎ越” 祭りです。人間が造り出した別の祭りではないのです。神の定めの日レビ記23章にある全てです。

 

そして、その祭りをマッツア=要らないものが削ぎ落とされた人の実態=神の似姿の人で祝おうと言って居るのです。

そのまま読めば、パウロが神の定めの時、過ぎ越の祭り、種無しパンを食べる1週間の祭りの話を指して人々に悟している事に、気がつく事が出来ると思うのです。

 

人の中には、以前の自分の記憶がある。

ズレ=ハメッツが、記憶の中に潜んでいる、購いだされた

今の自分を妨害して来る。

そのハメッツが何であるのかはっきりと神に語られて、気がつける季節が秋から春の長い冬の季節なのです。

 

ある日突然、慣れ親しんだ我が家を脱出する。

外国に住み、奴隷と言えど、鎖に繋がれた奴隷ではない。

家もあり、美味しい物も食べて、お金ももらえた。

でも、それはまやかしの人生だった。

意味なく、虚しく、ピラミッドのレンガを積み上げる

日々だった。

命を生み出せない只の幻を追いかけて生きて来た。

そして別の神々の教えを聞き続ける場所に生きて来た。

 

でも今、本当の自分の家=本当の神に繋がれる、結ばれる、戻る場所に向かって、本当の自分=神の似姿で生きる命へ移された時期。

それが春だったのです。

 

聖書は全部繋がっている。どこも変化ないのです。

全て絵画的言語で語られているのです。

 

父なる神、命の源、春の季節に、作物が熟す。

新しい人で、再出発、購われた本当の自分で生きる命へ

移された。それが出エジプトの出来事なのです。