私達は”あなたはマッツア”と神に言われているのです。
人が何と言うのかとは、全く関係の無い事なのです。
神の似姿に造られているのに、ズレを選択し続けて
生きて来てしまったと言い換えた方が良いです。
偽の姿を学習してしまったと言い換えた方が良い。
神が私達をなんと評価しているのか?
何と言われているのか?私達をどう見ているのか?
神の完了の業だけを土台に、私達が種無しパン=マッツアであると神が言われているのです。
それだけが大事な事なのです。
人の教えを基準にすると混乱して行きます。
自分が誰であるのか、分からなくなって行きます。
自分はまだ罪人なんだと言い続けてしまいます。
本当は違うのです。
聖書だけに戻って確認する!
パン種=ハメッツと、マッツアは別なのです。
でも、パン種はマッツアの中に取り込み続ける事は
可能なのです。だから、それをもうしない。
偽の自分で生きないと決めれば良いのです。
ずれたら直ぐ戻る!
それでなくても、自分が誰か?と言う事を知らないのですから。
増々混乱して行く。人の声、別の教えを聞き続ける場合は。
だから神の言われる言葉、声だけを聞き続けて行けば良いのです。
マッツア=要らないものが削ぎ落とされた人。
種無しパンです。
種=ハメッツを取り除かれている。
あなたはマッツアと聖書に書いてあるのです。
パウロが神の言葉を伝達しているのです。
使徒=神の言葉をそのまま伝える人だからです。
1コリント 5:7 新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パン種のない者なのだから。わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。
人間の目から見た解釈を入れないで、書かれている通りに
聖書=神の言葉を読まないとならないのです。
5:8 ゆえに、わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭をしようではないか。
パウロは一体なんの話をしているのでしょうか?
”過ぎ越” 祭りです。人間が造り出した別の祭りではないのです。神の定めの日レビ記23章にある全てです。
そして、その祭りをマッツア=要らないものが削ぎ落とされた人の実態=神の似姿の人で祝おうと言って居るのです。
そのまま読めば、パウロが神の定めの時、過ぎ越の祭り、種無しパンを食べる1週間の祭りの話を指して人々に悟している事に、気がつく事が出来ると思うのです。
人の中には、以前の自分の記憶がある。
ズレ=ハメッツが、記憶の中に潜んでいる、購いだされた
今の自分を妨害して来る。
そのハメッツが何であるのかはっきりと神に語られて、気がつける季節が秋から春の長い冬の季節なのです。
ある日突然、慣れ親しんだ我が家を脱出する。
外国に住み、奴隷と言えど、鎖に繋がれた奴隷ではない。
家もあり、美味しい物も食べて、お金ももらえた。
でも、それはまやかしの人生だった。
意味なく、虚しく、ピラミッドのレンガを積み上げる
日々だった。
命を生み出せない只の幻を追いかけて生きて来た。
そして別の神々の教えを聞き続ける場所に生きて来た。
でも今、本当の自分の家=本当の神に繋がれる、結ばれる、戻る場所に向かって、本当の自分=神の似姿で生きる命へ移された時期。
それが春だったのです。
聖書は全部繋がっている。どこも変化ないのです。
全て絵画的言語で語られているのです。
父なる神、命の源、春の季節に、作物が熟す。
新しい人で、再出発、購われた本当の自分で生きる命へ
移された。それが出エジプトの出来事なのです。